ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』は一種の法廷映画である

トム・ハンクスは彼が(比較的)若い時の『ビッグ』から見始めて、『ガンプ』や『プライベートライアン』などの名作で何度もその姿を見ることになり、年取ってからは、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』では堅物のおっさん役がハマっているのにびっくりしたり、『ターミナル』では不器用だけどロマンチックな男の役を演じていたり、役柄が広いのもすごいけれど、年取ってからもいい役をがんがんもらえているのがすごい。

というわけで、『ハドソン川の奇跡』もその例に漏れず、おっさんだけど主人公を演じているのがトム・ハンクスである。イーストウッド監督と組むのはこれがはじめてらしいが、見る前から二人の相性がよさそうなのはわかる。

ハドソン川の奇跡』は実際にあった出来事と、それについて書かれた小説を元にしている。事件についてはwikiを見ておいてほしい。すでに再現ドラマも数種類作られている。

この映画を「ただの再現ドラマ」としてしか見れなかったという人もいたようだが、TVで放映された再現ドラマと見比べるとその質の差は歴然だ。まあそんなことはどうでもいいし、上のドラマはドラマで、映画では描かれていないことを描いているので見る価値はある。

さて、この映画は、変則的な法廷劇である。事故の後、国家運輸安全委員会(NTSB)のミーティングが開かれ、そこで機長のSullyによるハドソン川への着水という決断は本当に正しのかったかどうかが検証される。そこで、事故の直後に空港に引き返していたら着水などする必要はなかったのではないか、と言われるわけだ。この映画の見所は、機長が、その追求をどうやって交わすか、反論するかという点にある。

これは、そういう意味で、ひどくアメリカ的な映画である。もしこれが日本映画なら、機長とかレスキュー隊が迅速で的確な判断をした「プロの映画」みたいな作りになることだろう。『シン・ゴジラ』みたいな。ところが、アメリカではそれだけでは十分ではない。英雄的な行為をした人物がその後、その行為が真に正しいものであったと、弁論によって自分で自分を正当化することができてはじめて、英雄は英雄のままでいられるのである。これは、日本とアメリカ文化の決定的な差である。

アメリカ映画で、法廷劇が異様なほど好まれるのもそのためだ。もし機長が日本人で、最後の公聴会のところで「オレは仕事した。男はつべこべ言わねえ」みたいな態度でいたら、尊敬されないどころか、下手すりゃ犯罪者になるのである。弁論で勝つ、これこそ(日本人が言うところの)プロだ、という感覚がアメリカ人にはどうやら身体レベルであるようなのだ。であるので、単純なアクションものと恋愛ものを除くアメリカ映画のほとんどで、議論とか弁論シーンが大きな意味をもっている。

というわけで、この映画も、最後の公聴会が法廷劇における最終弁論みたいになっている。ただし、弁護士はおらず、機長自身が自分の弁護をする。

というのも、国家運輸安全委員会(NTSB)の検証によると、事故のすぐあとに空港に引き返していたら着水などする必要はなかったという結果が出たからだ。現職のパイロットによる事故のシミュレーションによって、そのことが検証された、というのがNTSBの言い分である。そこで、機長がそれに反論するわけだ。人間によるシミュレーションを見たあとに機長とNTSBがやりとりする場面で次のような会話がある。
(機長)「おいおいこれは一種のヤラセだろ。バードストライクのあとすぐに戻れって指示をあらかじめ受けているだろ。パイロットはこれ何度練習してるんだ?」(NTSBの人)「指示を受けているのはそのとおりです。練習は事前に17回しました。」(機長)「事故があったときには航空史上はじめての事態だったんだ。いろいろ把握するのに時間かかったんだ。人間ファクターを考慮しろ。」(NTSBの人)「ではシミュレーションにヒューマンファクターとして35秒追加します。」
というシーンがある。

このやりとりが本作のハイライトである。観客にこのやりとりの意味を完全にわからせるために、それまでに、実際の事故の状況の細部をこまごまと再現してきたわけだ。

さて、事故の後に35秒何もしない時間を追加してその場ですぐにシミュレーションしてみたところ、空港に引き返すのは無理だとの結果が出る。当時の機長の判断の正しさが認められた結果となったわけだ。機長と副操縦士はみなに賞賛される。その賞賛のシーンはカタルシスの場面だが、その場面を導くのに決定的なのが上のやりとりなわけだ。ここで、機長は自分の正しさを証明できるはずの主張をし、それが受け入れられた。

欧米では、相手の言うことそのまんま了承すると、大損することがよくある。「いやいや、その数字はあんたがたに都合の良い用に出しているだけでしょ」ってことを、具体的に指摘しないと、相手に都合の良い分そのまんまこっちに都合の悪いことになってしまう、そんなことが交渉事では日常茶飯事で起こる。基本、欧米における交渉事というのはそういうものなのだ。ふっかける側はできるだけ自分に都合の良いような条件を出すし、相手もできるだけ自分に都合の良い条件を相手にのませようとする。それが日常レベルで起きている社会、それが欧米である。

そういう社会では、この場面での機長のように、相手の言い分の瑕疵をついて、自分に有利な条件を導く、というのが生死に関わるレベルで重要なのである。この機長の議論の能力は、ある意味、彼が155人を救ったパイロットしての能力と同じくらい、あるいはそれ以上に大事なものなのである。これは、そのこと自体の良し悪しはおいておいて、そういうことを描いている映画なのだ。

アニメ映画『planetarian~星の人~』感想

プラネタリアンというアニメ映画を見た。私も、1つの作品を最後まで作り上げることの苦労を想像できないわけではないので、ある作品を駄作と言うことをためらう気持ちがないわけでは無いが、この作品は現在公開されているほかの傑作アニメ映画と比較して、駄作と言い切ってしまってもいいと思う。

とは言え、遊牧民が羊を1匹解体した後、骨や川まで全て使い尽くすのと同じように、映画好きである我々も、1つの映画を見た後は、それがそれが駄作であろうが、全て使い尽くしたい。むしろ駄作の方が何がダメなのかどうして面白くなかったのかということを考えると、良作よりも勉強になるものである。

そこで、プラネタリアンのどこが良くなかったのかということについて少し書いてみたい。

1 .アクションが弱い

このアニメには、冒頭と終盤にアクションシーンがあるが、それが弱い。と言うのも、アクションシーンに必然性がなく、主人公が決して死なないのがわかっているので、というか、死なないように物語が進むしかないので、緊迫感が全くない。主人公を攻撃するロボットの弾が当たる事は決してないわけだ。なので、描写もひどく適当である。

終盤のアクションシーンは、筋に関係がないと言う訳では無いが、主人公そのものが危険にさらされるわけではないので、アクションそのものの魅力が描かれないわけだ。これを防ぐには、主人公が物語上アクションを必要としなければならない。


2. 登場人物の感情が定型的すぎる

この映画で何よりも醜悪なのは、登場人物の感情の表出が、あまりにもありきたりでつまらないことである。30年前のアニメならこれでよかったのかもしれないが、今更いかにもな反応をそれぞれの登場人物がするのを見るのは苦痛だ。例えば、老人になった主人公が女神とされているロボットを見て、おお、等と驚いた表情をして前に進む、こんな演技はただただ古臭い。ただ、皮肉なことに、感情のないロボットの演技だけはこの映画にありがちな退屈な感情の表出がなく、その分まだ見られた。

3.ドラマツルギーの欠如

全体的に言える事は、この映画には物語を引っ張っていくドラマツルギーが弱いことだ。出来事が2つ並列的に描かれるだけで、それを結びつけるしかけがない。まるで、脚本のど素人が描いたような感じだ。

一応、主人公がロボットとの出会いをきっかけに星の人となって老人になるまで、星のことを語り継いできたという筋はあるのだが、それでは二つの大きなシーンを結びつけるにはあまりにも弱い。そもそも、世界設定が特殊なので、物語の世界では、星に対する憧れやこだわりが異常にあること、それが共感できないのである。

4.美的効果の弱さ

そして最後に、これはとても残念なことなのだが、このアニメの中で最も視覚的に美しいシーンは、プラネタリウムの上演の光景である。しかし、プラネタリウムと言うものは、確かに美しいものだが、誰もが既に1度は見たことがあるものであり、アニメの世界でわざわざ見せるようなほどのものでは無い。

というわけで、40年前なら、つまり宮崎駿が出てくる前なら、このアニメで私たちは十分に満足していたであろうが、今の時代には古すぎる。

もしかして勉強になるかと欠点をあげてみたが、あげて見れば見るほど、この映画の弱点がどうしようもないほど、致命的であるように思われる。上に挙げた4つの事は、アニメを作る上では、真っ先に克服しなければいけない弱点、というより、それこそを見所にしなければいけない点であり、そこがどれも弱いというのはちょっとお話にならない。

少なくとも、今年になって私が劇場で見た、傷物語君の名は。や、聲の形などは、どれも上で挙げたような弱点は無い傑作ばかりだった。正直、今の時代に、この程度のアニメがまだ作られているというのは結構衝撃である。終わり


『君の名は』は記憶の共有についての話だ

そもそも私は、人の記憶が電話の混線みたいにほかの人のとつながるっていうタイプの話がすごい好きだ。なので、私の好きな映画のリストの上位には、キェシロフスキの『二人のベロニカ』とか、ホウ・シャオシェンの『好男好女』とかが来るのである。『二人のベロニカ』は、同じ名前、容姿、才能を持つベロニカという女性が、片方は死に、片方は生き残るという話で、生き残ったほうがもう片方の存在に気づくという話。『好男好女』は現代に生きる台湾の女性が、50年前の難しい時代に聞いていた女性の役を演じるうちに、その過去の女性と自分を重ね合わせていくというお話。どちらも、他人の記憶が自分のに交じる、という少し変なお話だ。確かに、どちらもあまりわかりやすい話ではなく、あまり一般受けしない映画ではある。でも、私は話がわかりやすいかどうかとかはどうでもよく、自分の心にビビッとくるとことがあるかないかで判断するタイプなので、気にならない。

というわけなので、私は、新海誠監督のアニメ『君の名は』を、記憶に関する物語であると見て、ビビッと来た。この映画でとくに興味深いのは、大林宣彦監督の『転校生』以来の、若い男女の入れ替わりというすごいありがちな設定が、恋愛の過程の一部を導入するためだけに使われているのだけではなくて、入れ替わりによって互いの記憶を共有するという意味を持たせていることだ。

互いの記憶を共有する過程、これは二度映画の中で描かれている。一度目は、互いが入れ替わっていることに気がついて、メモなどを残しながらなんとか互いに入れ替わった事態に対応しようとしている期間、この、音楽が全面にでていてセリフなしで流れるシーンで初めて描かれている。そして二度目に描かれるのは、立花瀧がご神体の地で噛み酒を飲み、宮水三葉の記憶を共有する場面。ここで、今度は三ツ葉のこれまでの人生の記憶を瀧が共有する場面が描かれる。この二つの場面が、この映画で最も重要なシーンである。というのも、この映画は入れ替わりによって恋に落ちた男女の話なのではなくて、互いに記憶を交換した男女が、そのことによって互いが互いの半身となるという話だからだ。さらに言えば、二回目の共有のシーンでの、瀧が「三葉の半分」である噛み酒を飲むこと、そしてそのことによって三葉の記憶を共有すること、その展開に、この話のテーマが象徴的に集約されているのである。

であるので、以下のツイッターのコメ(これ自体はすごく面白いが)にあるような、「二人が恋に落ちるまでの過程がどうたら」という意見はこの物語にとって何ら本質的ではない。



というのも、普通の人が学生時代にするような「ちゃんとした恋愛」と、この話に出てくる瀧と三葉の恋愛とはまったく別物なのであるからだ。瀧と三葉はいわゆる普通の恋愛をしているのではなくて、記憶を交換することによって相手が自分の一部となることによって、互いがかけがえないのない存在になる、という極めて特殊な形で恋愛をしているのである。

とはいえ、私は、このアニメで描かれているような恋愛が、アニメの外に住んでいる生身の人間には不可能だと言っているのではない。こういう恋愛は三次元の人間にも可能である。だが、それはいま問題になっている話題ではない。

さて、人間が唯一真に所有するもの、それは記憶である。それ以外のもの、たとえば、お金、仕事、容姿、人間関係、物などは一時的に所有することができるものであるに過ぎない。現在は過ぎ去るが、過去は過ぎ去らず、つねにある。そして、つねにそこにある記憶こそが、ある人間をあるひとつの人格として保つものでもある。と言うと、記憶なんてものこそ一時的なもので、どんどん忘れていくじゃないか、という反論もあるだろう。実際、この反論どおりに、映画でも瀧と三葉は記憶は、終盤にかけてどんどん失われていき、それが物語を異様に切ないものにしている。だがそれでも、二人の記憶は完全に失われない、というのもこの話の大きなポイントである。これがこの映画の深さであり、ほかのいろいろなギミックがいかに表層的なものであろうとも、私がこの映画を絶対的に支持する理由でもある。

瀧が、三ツ葉になっていた間に見ていた糸守の景色をかすかに覚えていたというところもいい。結局、記憶というのはその人の一部なのである。互いの一部、あるいは全部を一度共有したことのある相手、瀧にとっての三ツ葉が、かげないのない相手になる、これは当然のことである。だが、その記憶、つまり自分の一部をなくすことによって、瀧には余計にその記憶に執着するべき理由が生まれるわけだ。この部分、最後の、相手の記憶をなくす、という部分が『秒速5センチメートル』とは違う部分であり、そこがこの映画の終盤のドラマツルギーを作っている。終盤のドラマツルギーが『5センチメートル』とは違うのだから、当然展開も違うものとなる。

細かな記憶は失われるが、そこに結びついた感情は失われない。これは人間の真実である。このことについて論証するのは哲学や心理学の分野の話になるので、ここでは省略せざるをえないが、ある程度、たとえば二十年ほど生きてきた人間には、このことは真実だとわかるのではないだろうか。記憶に一番強く残るのは感情であるということ。そのことがこの映画の終盤にかけて描かれている。瀧と三葉、とくに中心に描写される瀧は、過去の記憶をなくした後でも、そしてそのなくしたことということそのことさえも忘れてしまった後でも、三葉にまつわる感情と、三葉を探さないといけない、忘れてはいけないという正体不明の感情だけが残る。

そんな薄い、あやふやな感情が人間を動かすような強烈な動機になるはずがない、と思う人もいるかもしれない。そういう人に対しては、大事な感情をいくつか体験してほしい、そして、歳を重ねてみてほしい、としか言えない。人間は、忘れる生き物である。だが同時に、感情だけは覚えている生き物である。その感情の原因となった記憶がいくらかあやふやになっても、それでもその原因となった人や出来事を大事に思い続ける、そういう生き物なのである。

確かに、いま現在抱いている感情、それが人間にとっては一番強烈なものであり、人を動かす最大の要因となるものである。それに比べると、記憶というのはかつて抱いていた感情の残像であり、薄められたものである。そのような薄い、弱められたもの、だがそれがいま現在の感情よりも大きな力を持って瀧と三葉に作用している、そのことにこの物語の終盤のキモがあるわけだ。一時的にであれ記憶を共有し、互いが互いの半身となった存在、その相手と、相手が住んでいたところ、それらの記憶が、東京の、すごく多忙でほかのなにもかもをどうでもいいと思わせてしまう生活の中で、現在の感情を圧倒して二人に迫ってくる、そこまで描いたのがこの物語なのである。

そのことによって、『君の名は』は、類まれな、記憶についての映画として、私の中では、キェシロフスキの『二人のベロニカ』やホウ・シャオシェンの『好男好女』に並ぶ作品となった。

ところで、上のツイッターの「恋愛過程が云々」って話だけど、これがもしTVアニメ化とかされたら、二人が入れ替わった日常だけで1クール分くらいとれるよね。でも、そこでもし二人が「これこれこういうきっかけで二人は恋に落ちた」みたいな描写があったらそれこそぶち壊しだと思う。そこを描いていないのが、この物語にとって本質的なリアリティなのだから。

身体性と女性性

最近は、日本でも女性が女性であることについて話したり書いたりすることが増えてきたのか、立て続けに面白い記事をいくつか読んだ。

白波多カミンが語る、女子の悔しさ「男子に対して劣等感がある」

白波多カミンは曲作って歌っている人。女の子。



うわあ、レディヘっぽい。まあそれはいいとして、上のインタビュー読むと、
……女の子って、結局常に見られる側で、選ばれる生き物なんですよね。男性が選んでくれないと子孫が残せない。それはただ単に体の形や機能の違いなんですけど、それによってコミュニケーションの形も決まってきている気がするんですよ。女の子はいくらどうしたって最終的には待ってるしかない。そこにもどしかしさがあるし、悔しい。
とある。これ、うんうんと頷く人もいるだろうし、んなアホな、と絶叫する人もいると思う。

ワタクシが思うに、すべての女の子は二種類にわけられる白波多カミンさんのように、声をかけられるのを待つことしかできないタイプと、自分から告白できるタイプ。前者と後者のあいだには、男と女の差以上の差がある。なぜか。

前者の女の子の極端なタイプには、「告白なんて絶対しない。自分から告白して好きな人と付き合えることになっても嬉しくないのでしない」というのがある。このタイプは、選ばれる側にいて、選ばれること、そのことに自らの女性性を確認し、満足し、喜びを感じるタイプである。このタイプは要するに、アプローチされることにおいてのみ認められる類の女性性というものに自分のアイデンティティを置いているわけだ。

後者のタイプ、これはすでに女性としてある意味極端なタイプなのだが、このタイプは好きな人ができたらまっすぐに向かっていくタイプである。このタイプは、自分で自分の感情を人に発信することができるし、自分のアイデンティティを狭い意味での女性性に閉じ込めていない。

とはいえ、白波多カミンさんは、どー考えても前者の極端なタイプであるとは思えないんだけど、それはまあ置いておく。じつはこの人のことを、私は文月悠光という女性詩人を介して知った。文月さんは詩だけでなく、エッセイも書いていて、それが結構面白い。

たとえば、
「かわいい」は疑え!
これ。あ、ここに白波多カミンの話もでてくるね。

この記事では、自分が「かわいさ」を好きで追求していたのに、かわいくなったのが原因で男の子にアプローチされだすと「これじゃない」と思った、という話がある。

この話すごい面白い。男であってもそういう感情はすごく理解できると思う。そして、この記事全部読むとさらに面白い。というのもそこで文月さんは「かわいい」がゆえに許されている自分のいろんなことととか、逆に自分の言動がかわいくないなあと思うこととかについて話していて、自分の「かわいさ」に対して両義的な思いを抱き続けていることがわかるからだ。女性の中でも、自分の性に自覚的な人はそういう思いを持ち続けているのだなあ、と思った。

そこで、上で言ったことに戻ろう。前者の女のタイプ、待ち続けるタイプ、これは自分で努力して維持している「かわいい」自分、それにとんでもない誇りと自信を持っていて、それを認められることでアイデンティティが満たされるわけだ。このタイプは、自分の「かわいい」女性性と自分自身が完全に一致している、と考えていいと思う。

さて、ここで、次の記事も読んで欲しい。
セックスすれば詩が書けるのか問題
これはツイッターでけっこう流れていて、話題になった記事だ。

ここで特に面白いと思ったのは、筆者が「男性には身体性がないのか!」と気づくところ。まあ、すべての男性が自分の身体性を意識していないとは思わないが、というか、違うが、確かに女性のそれとは比べ物にならない。

どういうことかと言うと、女性はごく小さいころから自分の身体性を意識させられる。女性性=女性の身体性である。逆に男は、自分の性を意識させられることも、自分の身体を意識させられることもない。

ふーん、そうかなあと思うかもしれん。でもこれ、男女集めて自由に小説書かせるとすごいわかりやすく出る。女性は自分の体だのセックスだのについてよく書くのに対して、男はほとんどそういうことについて書かない。男の人は、自分が小説書くとして、主人公の体についてなんか書くとか想像できないでしょ? 実際、男が自分の体について書いているのってカフカの『変身』とかロートレアモンの詩くらいしか思い浮かばない。どっちも変身系。逆に女性の小説には、(変身しない)自分の体について書いてたり、人の体の匂いなんだのについてよく書いている。まあそれはいい。

とにかく、女性は自分の身体について小さいころから意識させられ、自分が女性であるということを強烈に意識しながら生きている。一番初めに女性を待つ一択タイプかそうでないかの二つのタイプにわけたが、これはあまりよくないかもしれない。もっといい分類法は、自分の女性性と自分が一致しているタイプと、自分の女性性と自分が一致しているとは限らないタイプに分けることかもしれない。これなら、白波多カミンさんと文月悠光さんは後者に入る。

さて、私はここで、じつは男性も二つのタイプにわけられる、と言いたい。男性には、自分の身体性=男性性を意識していないタイプと、意識していて、微妙に自分の男性性と自分が一致していないかもしれないタイプにわけられる。女性の場合はすべての女性が自らの身体性を意識しているのに対して、男性の場合はそうではないのでこういう分類になる。男性の場合は、自分の身体性=男性性を意識していないタイプが自分の男性性と自分が乖離なく一致しているタイプになる。逆に意識しているタイプは、そこに少し違和感を感じるタイプであるかもしれない。

しかし、彼女が書くものを読む限り、文月悠光さんの周囲にはあまりいい男がいないのかあ、と余計な心配をしてしまう。と同時に、彼女の記事に出てくる、初対面で「最近セックスしてる?」などと聞いてしまう男の気持ちもイタイほどよく分かる。

最後にどうでもいいことだが、文月さんのように知性もあって、わかりやすいけれどはっとさせられる文章を書ける女性は、知的なバリバリ系女性タイプで攻めてほしい。背が高くなくても、スーツ着てなくても、ロングヘアでも、メガネさえかければそれっぽくなる。ただ、男が一番声かけづらいのはきっとそういうタイプではあるんだが…


人間の境界 相模原市障害者施設虐殺事件について

相模原市障害者施設で起きた大量虐殺事件が話題を集めている。これは戦後最悪の虐殺事件の一つなのは間違いない。が、「世間を騒がせている」と言っても、健常者側の人間にとっては、対岸の家事でしかないのも事実だ。同じ日本で起きた事件であるのに、大半の人間が、まるでトルコで起きたテロ事件のように平然としていられるというのが今回の事件の特徴だ。

もちろん、健常者は「障害者は殺されて当然」と思っているわけではない。そうではなくて、大半の健常者は「これは障害者の世界で起きた事件でこちら側の事件ではない」と無意識のうちに区別してしまっているということだ。これはある意味仕方がない。とくに重度の障害者は施設などに隔離されている現代の社会では、健常者と障害者の世界が物理的に別れているのは確かだ。

さて、今回の事件について、こんな意見があった。
犯人の動機の根底にある『障害者は人間ではない』というメッセージは、実は障害のない人たちの心の奥底に眠っている感情なのかもしれません。障害があってもなくても人間なんだということを、もっと考えてほしいと思っています
これ、このことが私は今回の事件の根底にあると思う。

今回の事件は、当の施設で過去に働いていた職員が起こした事件である。そして、犯人は人づき合いもあり、愛想もよかったという証言がある。普通なら、なぜそんな人がこんな犯罪を起こすのだろうと思うところだが、この事件に関しては、引きこもりでニートでブサイクな人間よりも、人づきあいがよく、リア充な人間の方が比較的こういう犯罪を起こしそうな気はする。健常であればあるほど、障害者に対する眼差しというのは厳しくなりえるものではないだろうか。

なぜかというと、人づきのよい人間ほど、人間に求めることが多いからだ。人間という生き物は、ただ人間として生まれるだけでは人間として認められない。人間は人間社会の中に生まれるので、社会に人間として認められるためのさまざまな振る舞いや能力を身につけなければならない。その中で最低限のことに、「会話できること」がある。会話ができない人間は社会の中において文字通り人間として扱われない。このことについて、わざわざ証拠を提示する必要はないはずだ。

学校で必ずいじめられるのはまともに会話できない人間である。社会から叩かれるのはリアルで会話できないニートである。就職することができないのは面接でまともに受け答えできない人間である。社会は、会話できない人間を社会に受け入れない。つまり、人間として認めない。そもそも、人間は会話できない人間を人間として受け入れない。これは、私たち一人ひとり人間の奥深いところにある思想であるので、それが社会のあり方にも反映されているというわけだ。話しかけて、応答があること、それが人間がほかの生き物を人間として認めるサインとなっているわけだ。これは健常な人間のうちにプログラムされているといっても過言ではない。

重度の障害者の中には、人間として認められるためのサインを発せない者もいる。今回の犯人、植松聖はそうした重度の障害者をとくに殺害したという報告もある。そして、現場にいた職員は事前に彼が拘束しておいたとかで、当初の殺害の対象にはしていない。これは、彼が、彼が人間として認めるかどうかで相手に与える被害の大小を変えていたということを意味する。ちなみに、軽度の知的障害者なら、コミュニケーションは普通に取れることが多い。

三歳の子どもなら、重度の障害者を目の前にしても同じ人間だと思うだろう。しかし、多くの人は、歳を取るごとに、自分が「正常」と認める範囲が狭まっていき、重度の障害者を「異常」だと判断するようになる。もちろんだからと言って、ほとんどの人は障害者を虐殺しようとは思わない。だが、犯罪を起こした犯人の思いは、私たちが普段、会話のできない人間を一段劣った人間とみなすような気持ちのそれと、同一線状にあるのではないだろうか。

日本の思想4 日本人の倫理の基盤

さて、これまで日本における人間関係の構造について、いわば外的な面を見てきた。次に、日本の人間関係の内的な面を見てみよう。

日本人はつねに人の感情を傷つけないことを第一に考える。これは、単なるビジネス上の関係も、個人的な関係のときも同じだ。表に出されない人の感情を感じることに、日本人は世界一長けているのは間違いない。逆に言えば、日本人は世界一傷つきやすい。よく日本人がパリ症候群になるのは、フランス人の気の使わなさにショックを受けるからだ。日本で人にしてはいけないとされていること、それは世界基準ではないのである。

日本人の倫理、それは、人の感情を傷つけるのを避けること、あるいは人の意を汲むこと、にある。日本人がこの倫理を共有している結果、日本は世界で最も安全な国となっている。世界平和度指数の2012年版ランキングでは五位だが、2011年にはアイスランドなどに続いて3位だった。ちなみにフランスは40位。アメリカは88位で中国が89位。
http://www.newsclip.be/news/2012612_034794.html

2011年、震災後に三位というのは、欧米先進国ではまあありえない結果だ。震災後に政府はパニックになったが、人々は比較的落ち着いていて、買い占めが起きたくらいで暴動は起きなかった。世界は日本に驚いた。こんなことが可能なのは日本だけである。多くの日本人は、近代になっても、まるで部族性社会において生きているかのような倫理観を持ち続けている。その理由は、日本人がもともと非常に社会的道徳を大事にするからというのもあるが(日本人の多くは、震災で完全に破壊されたコンビニで食料を調達することも犯罪行為だと思った)、日本人が小さな頃から人の感情を傷つけないことを第一にして生きているからだ。ちなみに、巷でよく言われる小市民的倫理、「人に迷惑をかけなければ何をしてもよい」というのは日本的倫理ではない。そもそも、人に迷惑をかける範囲というのが日本では広すぎて意味をなさない。

日本人の倫理観は、日本の平和さと治安の良さに貢献しているが、日本人を心の底で強く縛っているものでもある。たとえば、日本人が集団内にいて、空気を読め、と言われる。これは自分のしたいことや話したいことよりも、集合的感情や気分を壊さないことを第一に考えろ、ということである。さらに日本人は仕事を自分から辞めることを躊躇することが多い。これは、辞めればほかのメンバーに迷惑がかかる、つまり集団の気分を害すると思うからである。

日本には基本、個人の自由がない。それは、日本人が自分より集団を優先しがちで、さらにそのことをほぼつねに期待されているからだ。日本では、個を殺し集団に貢献できることのできる人が優れているとされる。日本にいてはほんとうの意味で気づくことはないが、これは欧米とは完全に正反対の倫理観である。


今や多くの日本の会社は、人とのつながりを保証する場であることをやめ、日本人の会社への忠誠心を食い物にして搾取する非情な機械へと変貌している。しかし、日本人は集団への帰属をやめることはないだろう。会社が連帯感を満たす場でなくなれば、ほかの代わりとなる場を探せばいいだけだ。逆に、その、かわりとなる場が見つからない場合、日本人の倫理感というのは失われるだろう。これは、日本社会の不安定化を意味する。すでに一部、とくに大都市などではそうなりつつあるようにも思える。


日本の思想3 人とのつながり

動物の社会は、種によって地域差がない。ある昆虫の社会が進化することは知られているが、一時代に存在するその種の社会のあり方は1つだけだ。シロアリは日本でも南米でも同じ社会を持つ。ところが、人間の社会は時代によっても地域によっても大きな差がある。その差は、安心、自尊心、連帯感の追求の仕方が地域によってそれぞれ異なることからくる。すでに日本における安心自尊心の欲求の社会的処理の仕方については述べたので、最後に連帯感、人とのつながりへの欲求について論じたい。

安心や誇りへの欲求と比べると、人とのつながりの欲求は、比較的弱い欲求のように思えるかもしれない。実際、日本では「ニート」と呼ばれる人が社会的つながりを断った生活を送っている、などとよく報道される。証明はしないがこれは正しくない。人が人としているためには、人とつながっているという欲求を満たす必要が絶対にある。これが満たされないと、往々にして人は犯罪者となる。テレビを騒がすような異常性犯罪者や、銃乱射事件の犯人などは、人とのつながりを十分にもてていなかった人物が多い。刑務所で人とのつながりが生まれると、受刑者の再犯罪率が減少することもわかっている。
例↓
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52115664.html

日本での人とのつながりの欲求に関する特徴は、日本人は集団とつながっていることを特に欲することにある。学校や職場における集団に属することで、日本人は連帯への欲求を満たす傾向にある。この集団はしばしばリーダーを持ち、各人の役割や階級が暗黙のうちに形成される。ある組織に属する日本人は、ほぼ何らかのグループに所属することになる。

結果として、日本にはゲゼルシャフトがなく、ゲマインシャフトしかない。そもそも、この、ゲゼルシャフトゲマインシャフトという区別は、近代欧米社会においてのみ意義があるものだろう。欧米における会社は基本ゲゼルシャフトだが、日本における多くの会社はゲマインシャフトの集合体である。そして、日本においては、一般社会自体もまた、さまざまなゲマインシャフト的集団の集合体として存在する。尤も、日本におけるゲマインシャフトは、中国や欧米におけるような地縁・血縁の共同体ではなく、同じ大学や会社に所属するメンバーからなる。

各人がそれぞれの役割や地位をもつ日本的集団は閉鎖的である。欧米人が日本に来て、友達の友だちが来る集まりに行こうとして、「ごめん今日は内輪の集まりだから」と断られて理不尽な思いをする、ということがよくある。欧米人には「内輪」という概念が理解できない。日本人は、たとえ複数の集団に属していようが、それぞれの集団はまったく別の構成員からなる場合が多く、たとえ自分の友だちであっても、別の集団に属するメンバーを紹介したりしない。たとえば、同じパーティーに大学の同級生と会社の同僚の両方を呼ぶ、ということがない。日本人の人間関係においては、「友人」よりも、「メンバー」のほうが優勢で、頻繁に使われる概念である。

前回、日本人は自分がいる会社や学校の格やそこでの地位によって自尊心が左右される、と述べた。これに加えて、日本人にとって会社内の集団での人間関係は、そこで人とのつながりへの欲求が満たされる場所でもあるわけだ。それゆえ日本人は頻繁に、会社が終わった後にはすぐに家に帰るのではなく、同僚と飲みに行く、などの行動をとる。日本人がある集団の一員に真になるとき、それは、1.そこに自分の誇りをかけ、2.そこで連帯への欲求を満たすことを期待するようになり、3.その二つのことを周囲が認識する、そのときである。この構造は、ヤクザや大学のサークル、学校の不良グループに至るまで変わらない。一般的に、日本における集団は、この3つのステップを踏んだ構成員によって成り立っている。この3つのどれかが欠けると、日本人はその集団に属せなくなる。

今や、日本人における会社の圧倒的な重要性を完全に理解できるだろう。日本人にとって職場とは、安心、誇り、連帯感の3つの人間の欲求が満たされる場所なのである。そこは、人生のすべてが得られる完全で絶対的かつ神聖な場所だ。阪神大震災のとき、被害にあった家庭をもちながら、地震後すぐに会社が東京で開いたセミナーに行って帰らなかったという男性がいる。
http://www.k-moto.net/book32/archives/2005/07/post_330.html

これは、この男性にとって、家族における人間関係よりも会社における人間関係のほうが重要であったことを意味するだろう。もちろんすべての男性がそうなわけはないだろうが、家族とあまり一緒に過ごさない夫、というのは日本ではとても一般的なイメージである。欧米人女性と日本人男性が結婚したあとに問題になるのも、日本人男性の仕事と家庭に対する比重の置き方の極端さだ。

アメリカの映画やドラマで、よく母親や父親が自分の子供に対して、「あなたは私の誇りよ」というシーンがある。これは日本ではまず見られない光景だ。一般的に言って、日本において家庭とは、そこで自分の誇りがかけられている場所ではないからだ。

日本では、家族関係の希薄さなんかがよく取り沙汰される。これは欧米と根本的に違うところだ。アメリカなんかでは未だにお父さん絶対の世界である。思うに、日本では、家族間の人間関係を成り立たせる文化的コードがない。ゆえに、それを可能にするのは、個人の独創的な努力のみである。