ビタミンCのブログ

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日本の思想2 自尊心

人間が人間として生きていくのに衣食住以外に何が必要か。それは、安心、誇り、連帯感の3つだ。これからも今までどおり生きていけるという安心感、自分に対する自負や自信、そして人とのつながり、これらが人が人として生きていくために最低限必要なことだ。それらが失われると、人は人として生きていけない。いや、このことは、ある程度高等な動物についてさえも言える。犬や猫や鳥も、やはり己への自尊心や生活の安心、そして同類との社会生活を必要としているのは、簡単な観察からも容易にわかる。

制度は、人の欲求を特定の仕方で満足させるための装置である。社会は、安心、誇り、連帯感への欲求を満たすためのさまざまな装置を用意している。というより、社会や制度と呼ばれるものは、この3つの欲求を満たすために存在している。日本社会も同じだ。すでに、安心への欲求について、日本社会がどう対応しているかは見た。では、次の欲求、誇りへの欲求について日本社会はどのような制度を持っているのだろうか。

日本人は世界で最も謙虚だ。すぐに人に頭を下げ、自分のことを低く言うのに抵抗がない。これは世界的には、極めて特殊な性質である。外国人には、日本人には誇りがないように見えることだろう。事実、アメリカなどでは子供への必要な教育としてまず自尊心があげられるくらいだが、日本人ではそうではない。しかしこのことは、日本人が自信を持たないということではない。では、日本人の自信の根拠はどこにあるのか。

一般的に、日本人は集団への帰属意識が極めて強い。ゆえに、日本人の自尊心は、帰属する集団によって左右される。日本では、自分に自信を持てと親に言われるのではなく、いい学校、いい会社に入れと教わる。これは、日本では、いい学校やいい会社に入ることそのことがすなわち、自尊心を持つことを意味するからだ。日本では、個人的かつ心理的な次元の問題が、社会的かつ客観的な問題として解決されるのである。

この傾向はしばしば極限まで行く。往々にして、日本人は自分主体ではなく、自分が属する集団を自分そのものとして考えるようになり、一人称単数ではなく、一人称複数で考えるようになる。自分が集団の一員なのではなく、集団が自分そのものとなる。自分のアイデンティティーとして、まず会社の名前を言う、というような行為は日本人に特徴的だ。さらにたとえば、日本人の既婚男性が失業した場合に、妻との離婚をも意識することがあるのは、彼のした結婚が、彼の就職している会社の名前によって成立したようなものだったからだ。日本人の妻の多くは仕事を持たず、彼女の自尊心は夫の務める会社に左右されるのだ。日本においては、人間関係は制度的な枠組みの上でのみ可能となる。つまり、人の社会的地位が、その人の持ちうる人間関係を可能にする。

さて、いったんある集団に属すると、日本人の自尊心はその中での地位によって左右されるようになる。よって多くの日本人にとって、会社とは単に仕事をしてお金をもらう場所というよりかは、そこで自分の価値が決定される場所となる。欧米では、属する会社よりもむしろ、そこで得ている仕事内容の違いによって社会的地位が決まるのに対し、日本では属する会社と役職によって決まる。海外の駐在先で知り合った日本人女性同士が、それぞれの夫の会社での役職に応じて相手女性への口の聞き方を変えることがある。これはやはり、一般的に言って、自分の仕事を持たない日本人の妻が、夫の会社での役職に応じて、その社会的地位や自尊心が左右されるからである。

欧米では、一般的に、自尊心は個人的な次元のものである。そして、誰もがある程度の自尊心を持っている。個人主義とはそういうことだ。欧米では、乞食でさえほとんどの日本人よりはるかに偉そうにしている。よく日本人がヨーロッパに旅行して馬鹿にされたように感じることがあるが、基本欧米人というのは自尊心の塊でそれを常に表に出しているので、バカにされたように感じてしまうだけだ。欧米ではごくごく普通な人の態度も、日本人には信じがたいほど偉そうに、礼儀を欠いているに見える。事実、欧米では誰もが日本人からすれば異常なほど自尊心を頻繁に表に出し、自分の知らないことや間違いを決して認めない。おそらく、欧米では自尊心を表に出していない人間というのは淘汰されるからだ。少なくとも、日本では、人との関係を自分の自尊心より大事にするので、人を傷つけないことを第一に考えるが、欧米ではそうではない。

ところで、日本人で集団に属さない個人はどのような自尊心を持っているのだろうか。一般的に言って、日本人は好奇心や探究心が強い。日本人の好奇心の強さについては、幕末に日本を訪れた西洋人の多くが特筆している。その上、日本人はじつは向上心が強い。よって、集団に属さない日本人は、しばしば、自分の道を極めることにおいて、自尊心を満足させる道を見出す。日本一流のパティシエ、陶工、野球選手、棋士、剣士、舞踏家などは、ただそれがうまい人というより、ある種の求道者のような精神を持っている。それは、日本では、自分が好きなことをとことん極めることと、自分自身の価値を高めることが同じ意味を持つからだ。これは欧米人にはあまり見られない。そもそも、とことん極める人というのがごく少ない。これは彼らが、単に自分そのものになぜかすでに自信を持っていて、ほかのものを必要としないからだと思われる。

日本人はゆえに、属する集団の違いやその中での地位によって、人との関係において相対的に自尊心を持つか、それか自分の極める道における達成度において自尊心を得る。結果、日本人は自分と他人を比較するのが大好きであるし、人を評価するにもなんらかの外的な基準をまず参考にする。これは、社会システム上もそうだ。たとえば、偏差値によって、無数の大学とそこに属する学生や教師が一律に社会的に評価される。また、結果として日本人の多くは上昇志向が強い。これも世界的に普遍的なことではない。たとえばヨーロッパでは、そもそも「上」がないので、上昇志向もない。なので、ヨーロッパでは、元植民地出身の人間のほうが上昇志向が強い。

日本人が概して極めて勤勉であるのも、自尊心への欲求から説明される。これまで述べてきたように、日本人は集団における地位によって自尊心が左右される。会社でよく働き、成果を出せば同僚から認められる。これが多くの日本人の自尊心の根拠なのだ。『エンゼルバンク-ドラゴン桜外伝-』で強調されていたように、日本の会社は成果主義だ。これは、日本人の自尊心そのものも成果主義だということだ。ぼくの見てきたところ、契約上の時間を仕事場ですごせばそれでお金をもらえると考えているような日本人は一人もいなかった。

これに対して、欧米人は勤勉ではない。というより、勤勉ということの意味を彼らは知らない。とくにフランスでは、ぼくの見てきたところ、ど素人の、その仕事について何も見ても聞いてもこなかったような人がそこで今日たまたま働いているような印象を受ける。つまり、フランス人の多くは、見よう見まねで働くことがぎりぎりできるレベルである。これは彼らが同じ職場で二十年働いていても変わらない。一般的に、欧米人は自分の仕事に注ぐ心的エネルギーが極度に低い。これは彼らの自尊心が、自分の仕事の成果によって全く左右されないからだ。

ゆえに、日本では自尊心の追求と満足が、社会制度の中に組み込まれ、そこで達成できるようになっている。日本においては、個人の自尊心が、文化的な装置のなかにある客観的な仕方で書き込まれるわけだ。個人的な心理上の問題が、制度的に決定されるのである。これに対し欧米というか特にヨーロッパでは、個人の自尊心は文化的な装置のなかに回収されない。自尊心はあくまで個人的なものであるからだ。この基本的かつ根本的な違いが、それぞれの社会において、人の行動や制度に関して、じつに多様な違いを生み出している。


日本の思想 1「労働と安心」

いま不人気のアベノミクスだが、当初は大人気だった。まあ、そんなこと多くの人は覚えていないかもしれないし、どうでもいい。今回注目したいのは、安倍首相の所信表明演説である。

むかし、私はこの演説を聞いていて、日本の保守思想というか、日本人の根底にある、ある信念を垣間見た。それは、二度にわたって繰り返されたので、もう見逃しようがない。

一つ目は、「今こそ、額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、まっとうな社会を築いていこうではありませんか。」という部分。2つ目は震災の被害にあった母親が子供にあてた手紙の引用で、「げんきに学校にいってくれるだけで、とてもあんしんしていました。」という部分。この二つの言葉は、日本の保守思想を象徴する文章であるといってよい。

日本の保守思想、それは、学校に毎日通って就職して、額に汗して働けば、幸福な人生を送れるはずだ、という信念である。ぼくが思うに、日本人の95パーセントくらいがこの思想を持っている。たとえ選挙で共産党に投票するような人でも、この信念を持っている。そうでないのは、子供を進学校ではない普通科の有名私立高校に通わせるような親か、ヤクザか、フリーの芸術家だけだ。ちなみに、純日本人の自分の子供を好んでインターナショナルスクールに通わせるような親も、ほとんどがこの保守思想を持っている。

なぜ、「学校に毎日通って就職して、額に汗して働けば、幸福な人生を送れるはずだ」というような当たり前の考えが保守思想なのか、と思うかもしれない。それは思想どころか、現実そのものだ、という人ももしかしているかもしれない。しかし、この考えが日本の社会システムの大本をなし、この考えに従って人々は人生を設計し、生きる、という意味で、これは思想以外の何物でもない。何も、偉い思想家の言うことだけが「思想」なのではない。むしろ、人々がそれをそれとして意識することはないが、しかし強固に抱いていて、それを元に自分の行動や人生を決定するような、そんな考え、それが本当の意味での思想なのである。

戦後、日本では大学入学率が急増した。それは、多くの人が、それなりの学校に行き、それなりの会社に就職すれば、それなりに一生安泰だと思ったからだ、事実、日本はその理想に一致した社会を実現していた。それはこの世に出現した楽園かと思われた。だがもはや今やこの理想は幻想でしかない。会社の寿命は短くなり、一生同じ会社で正社員でいられる保証はどこにもない。

日本の社会は変わったが、未だにこの保守思想は生きているし、この思想あるいは理想の実現のために学校教育はなされている。きちんと学校に行って勉強すれば、会社に就職できるはずである、という理念の元に、日本社会はある。いや、毎日学校に行く、ということ自体が、手段ではなくすでに目的である。なぜならそれは、「まっとうな人生を生きている」ことの証明であるからだ。会社に毎日行くのも同じ意味を持つ。「げんきに学校にいってくれるだけで、とてもあんしんしていました。」というある母親の文章の意味は、震災によっても生活が破壊されず、まっとうな生活を送っている、という安心感、それが子供が学校に毎日行くことによって得られる、ということだ。これは日本人としてごく普通の実感だと思う。しかし、この実感にまさに保守思想の核心がある。

現代日本の保守思想、それは、「安心感」の特定の仕方での追求にその動機がある。現代社会における安心とは、一生の生活が保証されている、ということを意味する。学校に行き、就職し、「額に汗して働けば」、一生安泰、それが現代社会における安心だ。安倍総理は「額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる」社会といっているが、これは演説的に美化した表現であって、真実ではない。大事なのは「未来」への「夢や希望」なのではなく、「一生」の「安心」なのだ。人類の95パーセントは、希望や夢よりも安心を好む。仕事、保険、毎月振り込まれる給料、それが現代社会に生きる人類に必須の安心なのだ。

いや、より正確に言うなら、日本人は給料そのものよりも、毎日仕事に行くことそのことの方により価値を置いているようにも見える。なぜならそれは「まっとうな生活」だからだ。同じように、子どもが学校に毎日通うことは、そこで勉強する内容よりも大事である。これは言うまでもなく、労働者の価値観である。自らの立場を思想的に正当化しているプロレタリアート、それが大多数の日本人である。もちろん、彼らは自らの階級がプロレタリアートであるなどとはみじんも思わない。

さて、この思想は、それゆえ、人生というレールについての思想でもある。というか、人生を一つのレールとして捉える発想、それがこの思想だ。ゆえに、この思想は、学校→就職→仕事=安心、という式で表されるだろう。それ以外の道、たとえば、学校中退→起業→上場、なんていう道は安心とはほど遠い、波乱に満ちた博打な、忌避すべき人生となる。 なぜならそれはプロレタリアート的な安心な人生ではないからでである。

この、安心を第一に求める思想、それは明らかに保守思想である。これは必ずしも世界で支配的な思想ではない。たとえば、欧米では安心よりも、個人の誇りを優先する思想に則って社会が構築されている。つまり個人主義だ。誇りも安心も人間が生きていく上で絶対に必要なものだが、どちらに重きをおくかによって社会のあり方は変わる。人がどちらの社会をより好むかは、その人の持つ思想によって決まる。多くの日本人は、個人主義の欧米で暮らすより、安心主義の日本で暮らすほうを好むだろう。日本社会は、安心が唯一最大の価値であることに特徴がある。また、人の安心を守り犯さないこと、それも絶対的義務として人々に課されている。

もちろん欧米でも、人生における安心というのは価値のあるものだ。しかし、日本ほど一本道な人生というのはまずイメージされないし、共有されていない。実際、転職、国外に移住なんてことが日本よりずっと頻繁にある。それ以外の途上国では、学校→就職→仕事というのは一部の人だけが実現可能な夢の道だ。尤も、先進国でも若年就職率、それも大学卒業者の就職率は悪化するばかりで、日本的な理想の人生を送るのはまあ難しい。あと、欧米社会では、(日本的な意味で)人の安心を保証するなんてことは義務でもなんでもない。日本では誰かがニュースになると、そのニュースの当人が「お騒がせしました」と謝罪するが、あれは、日本では人の安心な生活を間接的にでも犯すことが最大の罪だからである。そう考えないと、「お騒がせ」したことに対する謝罪することの説明がつかない。

私は、今の日本に必要なのは、「額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、まっとうな社会」だとは思わない。というか、それはもう実際無理だ。社会が大きく変わる時期には、人々は安心に包まれた人生を送れない。だが、問題はそこにはない。日本に必要なのは、たとえ労働が報われなくても、人が絶望することのない社会を作ることだ。また、一本道の道を敷き、そこから外れた者を見下し排除する社会ではなく、あらゆる人がまっとうな人生を送ることができる社会を作ること、それが必要だ。

私が日本のこの思想の存在に初めて気づいたのは、大学に入るために浪人したときだった。日本で、浪人するということはあってはいけないことであり、人生のまっとうなレールから外れることである。別に誰かにそう言われたわけではないが、そうした考えの存在になぜかはっきりと気がついた。日本では、人生は一本のレールであり、そこから外れること、それは人生そのものに失敗することなのだ、と。

いまの日本は、私が言う「保守思想」があまりに根強いため、それ以外の思想を持ち生きる人物が、社会のセーフティネットに入れない傾向にある。そして、一旦社会的弱者になれば、そこから抜け出るのは難しい。日本社会の本当の問題はそこにある。そして、その問題を、保守思想への盲信が固め、より大きなものにしている。

韓国・中国との関係改善は教育に鍵がある

だいぶん前の話だが、朝日新聞に、アジカンのボーカルが韓国に行ったという話が載っていた。「韓国では戦争の資料館に行きました。日本の加害の展示に肩身が狭い思いをしました。料理店で夫婦と話した時、戦争の話になった途端、心のシャッターが下りたようでした」。彼は二度、戦争という言葉を使っていて、それがそのまま朝日新聞に載っている。これは、なんの戦争なのか。日本が加害者だというのだから、朝鮮戦争ではないのだろう。しかし、夫婦と会話したということからして、秀吉の遠征のことでも、白村江の戦いのことでもないのだろう。では、いつ日本が朝鮮と戦争をしたのか。彼は、サンフランシスコ講和で韓国が呼ばれていないことなども当然知らないのだろう。

この程度のことを70年代生まれの人間が知らず、しかも、その誤った発言がそのまま新聞に載ってしまう。大丈夫なのだろうか。これは、日本の教育とメディアの両方にともに問題があるということだ。しかも、韓国の資料館は、ろくに資料に基づかず、日本人をことさらに残虐に描いていることで有名な資料館だ。そこで何も事実を知らない状態で行って、相手が提示するものをそのまま信じてしまう。これは一種の洗脳である。彼はほんの一例で、多くの日本人がこうした状態にあるのだろう。こう言うと、戦争だったかどうかは些細なことだ、韓国人に日本人がしたことが問題なのだ、という人がいるかもしれないが、果たしてそうだろうか。

歴史的に見ると、日本と朝鮮は隣同士でいながら、極めて良好な関係を保ってきた。両国間の戦争は、有史以来、上にあげた二・三回ほどしかない。これが、英仏間ならどうか、wikiに載っているのだけで19回もある。

日本と朝鮮は、世界的に見ても例外的なほど平和的な関係で長年いた。このことをまずは知るべきではないだろうか。

日本以外の国では、自分の国にとことん有利なように自国と世界の歴史を教えている。そのせいで、イギリス人は百年戦争はイギリスが勝ったと思っているし、フランス人はフランスがずっと世界の中心だったと思っている。別にこれらの国に限らないが、世界の各国の歴史教科書を見ると、日本の右翼なんか真っ青になるほどの極端な愛国教育をやっていることがわかる。しかし、日本だけはそうではない。それどころか、韓国や中国の提示する、何の資料もない(日本の)加害事件などを載っけている有様だ。日本は右傾しているとさんざん言われているが、世界のほかの国の基準からすればまだまだはるかに左だ。というか、日本についてそういうこと言っている世界のメディアの連中は、自分たちがどれだけ右なのか知らないのか、と言いたい。

というわけで、義務教育で愛国教育をする、というのは世界的には当たり前のことで、日本以外のどの国でもやっていることである。日本はそうではないが、ぼくは真実をきちんと教えさえすれば、問題はないと思う。日本人が日本に誇りを持てない理由は、じつはほかにある。

しかし、より深刻な問題は日本よりも韓国・中国の側にある。これらの国で厄介なのは、徹底した反日教育をやっていることだ。教育の効果というのは絶大だ。子どもは、大人が国のお墨付きのもとで教えることが嘘だとはまず思わない。そして、大人になってもそこで教えられたことを改めて疑ったりはしない。いったん反日教育を受けて育った人間は、ほぼ死ぬまで反日でいるということだ。これは歴史の問題ではなく、教育の問題である。第二次大戦でドイツに被害にあった隣国のどこも、いまはドイツは敵だというような教育をしていない。ベトナムでも反米教育なんてしてない。教育というのは伝統を形成してしまうので、一旦その体制ができてしまうと、変えるのは難しい。その教育を受けた人間が育って、自国の教育のことについて考えるわけだからね。

教育っていうのは、教科書に書いてあることだけじゃなくて、大人が普段から口にするようなこともすべて含む。日本では、互いを思いやり、時間に規則正しく、大人には礼儀正しくする、という教育がされているが、これは教科書には書かれていない。これと同じレベルで、中国や韓国では反日教育が行われていると考えるべきだ。しかし、これは教科書なんかにははっきり書いているわけではないので、左翼なんかの目には入らないようになっている。しかし、中国人の側からの以下の証言は、中国における反日教育の凄まじさをよく伝えてくれている。これは、日本人と結婚したいとこをもつ中国人男性が書いたものだ。

以下引用
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日本人男性と結婚したいとこが帰省してきた。旦那の親戚だっていう子どもを連れてね。なんでも中国に興味があるんだって。3人はいとこのお姉さんの家に住むことになった。っていうのも日本の子どもとだいたい同い年ぐらいの子どもがいるからちょうどいいだろうって話になったの。

日本人の子どもの名前は俊夫。小学1年生になったばかり。メガネをかけた姿はドラえもんのび太そっくりだ。中国語はほんのちょっとだけしゃべれるんだけど、初めてきた見知らぬ国、言葉の通じない人を前にちょっと緊張していた。でもぼくらをみるとにこっと笑ってくれる。それから礼儀正しくちゃんとお辞儀して、ぎこちない中国語で挨拶してくれる。良い子だなって、本当にかわいがったよ。

◆鵬鵬の敵意

でもね、上のいとこの子ども、小学3年生の鵬鵬は敵意むき出しだった。俊夫と会うやいなや、拳をふりあげて「打倒小日本」って叫んだんだ。言葉の意味がわからない俊夫はどうしたらいいか分からない様子。もちろん鵬鵬も脅かすだけで殴ることはなかったんだけど、びっくりした俊夫は顔色を変えていた。

上のいとこはあわてて鵬鵬をひっぱってきて、お客さんだから失礼なまねはしないで!って怒っていた。そうしたら鵬鵬が泣き出してしまった。日本人は中国の敵だ、おまえたちは愛国者じゃないって先生に言われたんだって。

それでぼくも説明した。先生が話したのは歴史の話でね、今は日本と中国の関係は改善したんだ。我が家に来た日本の子どもは善良な友人なんだよって。

そうしたら鵬鵬はもっと怒り出した。じゃあなんでちょっと前までパパもママも毎日家で日本が中国の土地を奪っただ、日本製品ボイコットだなんて話していたの?それに学校の先生は最近、生徒に教育アニメを見せたんだよ。日本帝国主義を打倒しろっていう内容なんだよ。

結局、鵬鵬はその日はずっと敵意に満ちた目で俊夫を見ていた。

◆日本の教育

俊夫は本当に善良でききわけのいい子どもだった。上のいとこが言うには、自分のものはちゃんときれいに片付けるし、顔を洗うのも歯を磨くのも言われなくても自分でやるんだって。それどころか自分の下着や靴下は自分で洗う。ご飯の時も食べてもいいよと言われるまでじっと待っている。

中国の親ってやつは自分の子と他所様の子どもを比べるのが大好きだ。上のいとこは鵬鵬も俊夫みたく物わかりが良ければ……って嘆いていた。彼女はいつも息子の後をついて回ってはゴミを拾い、戦場のようになった部屋を片付け、代わりにいろいろやってあげている。食事の時もいちばんいい部分は鵬鵬のもの。ぼくたち親戚だって鵬鵬を溺愛して、あれやこれやプレゼントしてあげている。

俊夫の聞き分けの良さ、礼儀、大人を敬うことを知っている姿を見ると、上のいとこは鵬鵬にあの子はああなのにと怒り出すのだった。確かに日本の家庭や学校の教育は中国とは全然違う。それが社会の雰囲気によるものかどうかはわからないけどさ。

こんなことが続いたから、鵬鵬は本当に怒り出してしまった。俊夫がやってきた翌日のこと、彼は自分のラジコンカーを鵬鵬に使わせてあげた。こうやって分け与えるのも彼らが受けた教育なのかもね。ところがその翌日になると、リモコンカーはばらばらになって鵬鵬の部屋に落ちていた。上のいとこが問い詰めると、鵬鵬は憎々しげに「日本製品ボイコットだよ」って答えた。それで俊夫はオモチャを貸さなくなったし、鵬鵬とも距離を置くようになった。

◆ぼくたちを凍り付かせた事件

でもその翌日になって、鵬鵬の態度もようやく変わってきて、俊夫と仲良くするようになった。あれだよ、やっぱり子どもの本性っていうのは善良でさ、友達を作りたがるものなんだよ。2人はお互いに名前を教え合った。鵬鵬は日本語の発音に興味を持ったし、「鵬鵬」「朋友」とか中国語の単語を教えてあげていた。それから自分のオモチャの車を俊夫に貸してあげた。

俊夫は本当に楽しそうだったし、大人たちもほっとしたよ。

でもね、俊夫が帰る前日の夜に起きた出来事がぼくたち全員を驚かせたし、心底恥じ入らせたんだ。

その日の夜、ぼくとぼくの両親、上のいとことその旦那、おじさんとその奥さんはみんなでリビングに集まってテレビを見ていた。日本からきたいとことその旦那は買い物に出かけていた。

すると、鵬鵬が俊夫を連れてやってきて、得意げに「俊夫が最後に話があるよ」って言ったんだ。そうしたら顔を赤らめた俊夫がもじもじしながら、恥ずかしそうに笑って不器用な中国語で話し出した。

「私は死んで当然の小日本です。中国人に対して申し訳ない。」

その場にいた全員が固まったよ。まっさきに反応したのは上のいとこだった。すぐに笑みをうかべて俊夫を抱きかかえて頭をなでた。その旦那は鵬鵬をトイレに連れ込んだ後、外まで聞こえるような大きな音がでる勢いでビンタした。その勢いはぼくまでどきっとしたほどだ。

真相はこうだ。あの言葉はきっと鵬鵬が教えたのだろう。俊夫はありがとうとか楽しかったとか、そういう言葉だと思ったんだろうね。

◆ぼくたち中国の愛国教育はこれでいいのかな

俊夫が日本に帰った後、上のいとこたちは自分たちの教育について随分反省していた。それからこんな小さな子どもまで、もはや変態的といっていいレベルで日本を憎んでいることに悲しみと不安を覚えていた。日本からきたいとこが言うには、少なくとも彼女が知っているかぎりでは日本の子どもたちは中国にそんな悪い印象を持っていないんだって。まさか今の中国の子どもがこれほど根深い憎しみを持っているなんて想像もしなかったと言っていた。

あるいはぼくたちの愛国教育はもっと客観的にするべきかもしれない。ぼくたちの反日感情はもっと冷静になるべきかもしれない。

子どもは物事を分かっていない。その心は純真無垢のはずだ。でも同胞が日本の自動車販売店を燃やして、日本車を壊して、ジャスコを打ち壊している時、学校の教育で日本を憎む感情を植え付けられた時、子どもの愛国観はすでにゆがみ始めている。

国恥を忘れるべきじゃない。小さい頃からこうやって教育するべきなんだ。そう言う人もいるかもしれない。

でも、なんでだろうね、一人の善良な日本の子どもが顔を真っ赤にしてぼくたちに親愛の情を伝えた時、中国人の子どもの憎しみはどうしてこれほどまでにぼくたち大人をいたたまれなくしたんだろうか。


KINBRICKS NOW(キンブリックス・ナウ) 2013年3月7日


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引用終わり


大人になると、多少は分別がつくので、個人レベルで日本人に敵意をむき出しにする人は少なくなるだろうが、子どもはそうではなく、大人による教育の結果をすぐに受けてしまう。問題は、そうした雰囲気が当然のようにある中国の社会にある。韓国も同じだ。



日本とこれら国々の関係を改善したいと、もし日本人が本気で思うなら、これらの国でなされている反日教育をやめさせなければならない。反日教育が、中国や韓国が国家として日本に敵対していることのすべての原因ではないし、たとえ反日教育がなくなったとしてもこれらの国々は、国際社会において日本の味方にはならないだろう。しかし、反日暴動やネットでの反日的言動などは、反日教育が原因であり、これは両国間の人民間の関係に明確な悪影響を与えている。

いくら日本人が中国人と仲良くなろうした所で、あの国で徹底的な反日教育が施されているのだから、その努力は焼け石に水なのだ。実際には、中国や韓国における反日教育をやめさせるというのは、両国の国民性そのものを変えるということを意味するので、これほど困難なことはない。どちらの国も、世界で起きているすべての悪いことは日本が原因で、自分たちはその被害者だという思考で慣れきっていて、普通の人がそこから抜け出すということは、常識的にはまずありえないことだろう。その上、たとえ両国の人間が日本を憎むことをやめたとしても、彼らの人間性そのものを日本人が好ましいと思って、真の良好な関係な生まれる、ということが保証されるわけではない。ぼくが思うに、この二国の多くの人間がもつ人間性は、大多数の日本人のそれとは根本的に合わない。とはいえ、もし日本人が本気で両国との関係を改善したいと思うのなら、両国における教育改革を促すことだけが、唯一の根本的な解決策なのだ。

セックスレスの原因と理由

ネットをさまよっていると、相関社会出身の人のこんな記事に出くわした。

セックスレスは日本の国民病?

彼によると、いまの日本のセックスレスの原因は、女性がより自由になったからだそうだ。んでも、これは嘘だと誰もが知っているのではないだろうか? たとえば、表紙がびっくりの『セックスレスな男たちとか、『求められない女』といった本がある。

これらの本で紹介されているのは、恋人や妻とセックスをしない男たちと、その相手の話なわけだ。だいたい、セックスレスになって被害が大きいのは女性の側だ。というのも、日本を含むアジアに住んでいれば、男は簡単に風俗で性欲を処理できるが、女性はそうではないからだ(ちなみに、多くの男が体験する風俗サービスはオナニーの延長であって、セックスとはほど遠い)。セックスレスになったカップルの女性の側からの報告は悲痛なものが多い。ネットで探せばいくらでも出てくる。 これとか。

セックスレスの原因は性欲の低下ではない。そもそも、人間から性欲がなくなるということはありえない。実際、セックスをパートナーに求めない男は風俗に通う。これはどういうことかというと、性欲と、特定の相手とセックスしたい欲望というのは別だ、ということだ。これはちょっと考えてみれば当たり前のことで、どんな人でも、性欲があるからといって、誰とでもしたいというわけではないだろう。例・その気になれば人間は同性とでもセックスできるが、それを選ばない人の方がいまのところは多い。

人が特定の相手とセックスをしたくなるのは、その相手と一緒にいたり話したりするのが気持ちよくて、身体的接触もまた気持ちがいいときだ。

あるカップルがセックスレスになるのは、それゆえ次の二つの原因からだと思われる。

1.一方が他方と一緒にいたり話したりすることに喜びを感じていない


2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない


どちらか一方の理由があるだけでもセックスレスになる。ほかにも原因はあるだろうが、それらはすべて一時的なものであるだろう。避妊法はあるのだから、妊娠が怖い、というのも本当の理由ではないはずだ。もちろん、加齢による原因もあるだろうが、それも解消できるらしい。
男性編

多くの人はこんな二つのこと原因だとは言わないだろう。事実、この記事に関する日記をいろいろ読んでみたが、上の二つが原因だと言う人は一人もいない。こんなことは、あまりに当たり前すぎて気づくことができないのだ。

セックスレスが日本の国民病であるのはぼくもそうだと思う。このことは、日本人が他人と一緒にいたり接触したりする、ということに喜びを見いだしていない、ということだ。これはかなり末期的な状態だと思う。

いままで、誰かと一緒にいて本当に気持ちがよかったことがあるのか、その人との身体的接触が本当に気持ちよかったか。これにyesと応える人の割合は、やはり日本人が世界で一番低いはずだ。人との接触から喜びをえる、ということが日本人はすごく下手というか、それが喜びであること自体をあまり知らない。それがセックスレスの原因であり理由だ。日本人がほかの国の人と比べて性欲が弱いとかそんなことは絶対ない。これはsocialな次元の問題なのだ。


さて、セックスレスになったカップルの話を読むと、どうしてその人と結婚したりつきあったのかがそもそも理解できない、という類いの話が多い。結婚する前はセックスに応じていた女性が結婚後は応じなくなったとか。しかし、相手が自分とのセックスを本当に喜んでいるかなんてつきあっているうちにわかるはずのことだ。というか、「2.一方が他方との身体的接触に喜びを感じていない」の原因は往々にして「1.一方が他方と一緒にいたり話したりすることに喜びを感じていない」であるので、セックスレスカップルは、そもそもつきあっていること自体が間違っている場合が多い。

そうした状態のカップルが数多く見られるということは、多くの人が自分に合わない相手とつきあっている、ということだ。あるいは、そもそも人と一緒にいたりすることに喜びを感じない者がくっついているかだ。

人と接する直接的な喜びに目覚めないまま人生をすごしていく人がこのまま増えれば、風俗産業はますます栄え、相手にされない片割れの悲痛な叫びが、ますます世にこだますることになる。その叫びが、人生ではじめて人の心と身体に触れることの大切さに気づいた証である、というのはかなり凄惨な事態だ。

そんななか、下のような、ある本についた一つのレビューには希望がみえる。

以下引用
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男性の本音や心の機微が綴られているので、恋愛中の人も是非読んでほしいです。
男性が何に傷つき、何に怒るのか。
私も知っているつもりで知らなかったことが
たくさんありましたから。

私自身、好きな人となぜか噛み合わなかったり、距離ができたり、
恋愛で壁にぶつかっているとき読み返すようにしています。

本書はセックスレスを題材にしながら、
男女のコミュニケーションの問題に深く切り込んでいます。
そして、気づかされます。

うまくいかないのは相手の気持ちを慮ってないときで
うまくいくのは相手の気持ちを念頭において行動しているとき。
相手の気持ちに敏感であれば、彼が何に傷つき何に怒るのかが
自ずと分かるようになります。

そして、目的のためには恥や自意識(=プライド)をかなぐり捨てることが大事。
恥ずかしがらずに素直に思いを表現したほうが相手の心に響く。
この正攻法に勝るテクニックはないという事実を、本書が証明してくれています。

結局は、相手に対する想像力や思いやり。
相手を変える前に、自分を変えるべきなんですね。

30歳半ばに差しかかって変にプライドばかり高くなり、
男性に素直に意思表示できなくなっていた私は
本書を読んで大分素直になることができました。

同時に、
「彼に思いやられて当然で、この私が彼を思いやるなんて私らしくない!」という
凝り固まった恋愛スタイル(=プライド)も、ようやく捨てることができました。

本書は永久保存し、折を見て読み返すようにします。
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引用終わり

しかし、「人の気持を念頭に置く」というようなことは日本人が一番得意にしているはずのことなのに、できなくなっているんだよなあ……

ワタシの考える最強の教育システム

以前、学校はバカを作る、という記事を投稿した。これは、学校というシステムがいろんな問題を抱えていて、結果として教育という本来の目的を果たすことができないし、考える人間を育成することなどとても無理、という趣旨の記事だった。

幸か不幸か、これについていろんなコメントをもらい、いまの学校教育業界は考えさせる教材や教え方の開発に余念がないし、実際に実行されてきている、という話を聞いた。これはこれでとてもいいことではあるが、そういう話を聴けば聴くほど、逆に学校という制度そのものに問題があるというワタシの当初の考えは強固になっていった。

そこで、今回は、ワタシが考えた学校というシステムを介さない教育システムのブループリントを話してみたい。これは理想なのだけれど、どこまで実現可能かどうか考えるのは読者に委ねたい。いいですか?

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まず学校を解体する。学校がないかわりに、各地に小さな教室を作る。生徒は学校には行かないけれど、公認の教室が各地にあって、そこに通うことができる。近くに公民館などの公共の建物がない場合は個人宅を教室としてもいい。生徒は、外に出るのが嫌ならネット経由で自宅で学習してもいい。生徒は自分の好きな方法で学習することができる。

常勤の先生はいない。暇な(性犯罪歴のない)大人がいれば教えに行く。教える側は、教えた生徒の数と生徒からの評価に応じてお金をもらう(完全ボランティアもあり)。

学年ごとに生徒は、自分の学びたい分野を選ぶ。つまり、自分がほしいディプロムには今年度どこまで学ばないといけないかを知っておき、今年受けるべき授業とその総時間の目安を各自登録する。小学校では受けるべき科目が全員同じでもいい。中学からは選択できる科目に多少バリエーションがあってもいい。

学ぶ項目は、たとえば国語なら漢字、音読、文章作成みたいなのがあって、ある程度自分の自由に選んで進めていい。教材はネット上にあげておくので、誰もが使える。科目の内容とかおすすめの進展方法とかは別途動画で解説がある。補助教材はすでにネットに無限にあるので、教材に参照リンクをつけておく。

評価は一緒に学んでいるほかの生徒が行う。学習室に来ている大人がテストをしてもいい。悪い評価をもらった場合は何回もテストをやり直せる。期日までにどの程度の項目をクリアしておかないといけない、みたいな目安があるので、それを達成するように頑張る。

生徒は、学んだことをほかの生徒に教えることで評価をもらうこともできる。進展度の早い生徒がいればほかの生徒にどんどん教えて、その人数ともらった評価がそのまま記録される。生徒は人に教えることでより理解が進む。日本には賄賂の文化がないからこれでも機能するだろう。自分が学んだことを数年後に下の学年の生徒に教えても評価をもらえるというシステムがあれば、孤島とか、東京の生徒の少ない地域でも生徒が教師役を兼ねることができるので助かる。

とにかく、まず国が履修科目システムをネットで整備しておけばいいわけだ。これに国民全員登録しておいて、情報開示する相手や内容を選んでおけば、誰がどこまで進んでいるかとか、誰が誰になにを教えられるかとかネットでわかるわけだ。どういう仕事についている大人がどういうことをいつどれだけ学んだかも参照できれば見本になる。

授業の内容だが、たとえばこういうのがありえるだろう。英語は毎日一文完璧に暗記して発音できればOK。発声は誰か(一緒に学習する生徒や先生)が確認する。ラジオ英語講座の方式で、スキャットがあって、そのなかから一文一文暗記するのでいい。これは量こなさないと意味ないから、パスできないときでも次に進まないといけない。グループで学習するのが望ましい。

高校からは自分の進みたい分野に応じて科目を選ぶ。大学が入学に必要な科目と進展度を提示しておくので、大学行きたい人は大学入学目指して自分で科目を選べばいい。これでセンター試験はいらなくなる。余裕があって、仕事に役立つ科目を終了しておけば、大学で文系に行っても就職に苦労しない…かもしれない。

高校の科目はそこそこ専門的になるので、教えられる人というのは身近にいないかもしれない。なので基本は動画や通信教育で学ぶのでいい。で、ちゃんと調べて理解できたと思う人がほかの人に直接教える。高校からは理解度チェックする項目を科目ごとに増やしたほうがいい。

専門的な高校は、今までと同じように存在してもいい。工業や農業とかは設備もいるし事故もあるので、さすがにそのへんの大人では教えられないから。情報系や商業系とかはそれ系統のゆるーい塾みたいなものを作ればいい。

学習して認定される科目は、特定の教育過程に限定される必要はない。すべての科目は誰でもいつでも学習できるし、終われば認定される。教育過程とは関係ない一般的な科目もあって、料理とか、健康とかは誰でもいつでもカリキュラムを進められる。学べる項目はそれこそ無数にあってもいい。豆腐料理とか、エクセルとか、髭剃りとか、木工加工とか、糖尿病予防とか、鹿の解体とか。こういうのを周りの人から教わったり教えたりすることで、教育課程時代に築いた人間関係を維持したり、あるいは広げたりすることができる。憲法を変えて、「人に自分の知識を教えること」を国民の義務に追加しておく。

大学では授業があってもいいが、高校までとシステムは共通でいい。授業受けなくてほかの生徒に教わってもいい。教えた生徒は評価をもらう。

就職に関しては、会社や職種ごとに、どういう科目が最低限必要かということを提示しておく。文系みたいな総合職もいまみたいに大学名やコミュ力で選ぶので変化ない。

あと、履修科目システムと連動した就職システムを作る。生徒は自分のもっている科目でどういう仕事があるのかソートできるので、自分がどういう仕事を選べるのかわかりやすい。また、子供の頃から就職に関する情報に触れやすくなるので、結果、将来自分がどういう仕事につくのかイメージする機会がおおくなる。転職する場合も、どういう仕事につく場合はどういう科目を学ぶ必要があるのかわかるので便利だし、インフラとして便利。

部活なんかは地域でスポーツコミュニティを作ればいい。マネージャー制度は廃止。スポーツも登録できる科目にいれておく。なるだけ多様なスポーツをある程度できるようになれるほうがいい。夏は泊まりがけの活動がいくつもある。あ、これだけはワタシの理想論じゃなくて、たとえばフランスではリアルにこういう制度になっている。地域のスポーツコミュは男女混合どころか、年齢層も自由。少しだけお金がかかるが、親は子どもにスポーツさせるみたいだね。

大人はそれぞれ履修してきた科目があり、それがすべてネットのシステムに登録されているわけだ。その情報をもとに、誰もが何かしら誰かに何かを教える権利をもつ。教育学部出身の専任の教員というのは必要ない。義務教育課程で、「ヒトにものを教える方法」みたいな科目を組み込んでおけば、専門の講師を特別な過程で育てる必要はない。あとは、教えた経験とそれに対する生徒からの評価もネット上に蓄積されるので、人気講師とそうでない講師が自然と選別されていく。

教育する側の参加者が少ないのなら、いまの裁判員制度みたいに、強制的に参加させるのでもいい。ただしある程度の報酬は払う。

それでも教える側が足りないなら、すべて民間企業に任せる。若い時期、たとえば6歳-22歳までは、年間40万円分までどこか民間の施設で授業を受けられるという制度を作る。これについての細かい制度は省略。

ということでまとめ。

このシステムの利点
1.勉強できる人間がモテるという制度を小学生から作ることができる。
2.子どものいない大人でも地域の自習室に行けばJSやJCとふれあうことができる(JKに教えるには高学歴でないとダメ)。

3.一つの学校に通う必要がないため、イジメがなくなる。
4.今までの教育システムだと、結局はどの大学に行ったかということがこれまでの過程の総評価となるが、これだと、それぞれの過程でどういうことをどれだけ、どのように学んだかということが分かるので、そのことが評価されやすくなる。
5.生徒が若い頃からなにを学習すればどういう仕事につけるのか、ということをイメージしやすくなる。これは勉強のモチーベーションを上げるはず。
6.学校における先生による生徒の支配、といういびつで閉じた社会を持たなくてすむ。
7.生徒と生徒のかかわりが第一になるので、生徒同士がもっと仲良くなれるし、友だちも増える(これいまの若者はヤバイらしいねボッチばっかで)。
8.国による教育の支配を終わらせることができる。これにより、地域の大人が子どもを教育するという共同体の本来の姿をとりもどすことができるし、学校や教師に教育のすべてを押し付けることもなくなる。
9.地域の教室に大人が出入りすれば、近所の人間はみな顔見知りになる。これで、あやふやな不審者情報に怯える回数も減るし、地域のつながりが生まれるので犯罪も減る。
10.一人の子どもを複数の大人や友だちが見ることになるので、虐待やネグレクトという子育てに関する問題の早期発見につながる。
11.科目数は無限にある(自由選択科目は民間が作成してもいい)ので、生涯学習をうながすことができる。大人も地域の大人から学べるので、大人同士の交流にもなる。
12.子どもの教育という大事な仕事を大人は思い出す。誰もが多かれ少なかれ教育に携わることで大人は大人としての尊厳を取り戻す。
13.「あ? こども教育するから土日はでてこれない? じゃあクビね」というブラック企業をみんなやめるのでブラック企業がつぶれる。
14.一人の教師に権限が集約することを防げるので、教育方法が多様になり、生徒も「だれになにを教わった」ということを一緒に覚えるので記憶が固定するし、記憶内容も増える。
15.自主的な学習がすべてなので、子どもは嫌でも自主的かつ自律的に勉強しないといけない。結果、自主性と自己管理能力を子供の頃から養える。
16.自由に勉強をすすめていいので、「落ちこぼれ」が生まれないし、他人と成績を比較しなくてもいいので、劣等感を抱かなくてもいい。
17.子どもは自分で自分の将来をみすえて学ぶ科目や進む先を自分で選ぶようになるので、自分の人生により責任が持てるようになる。
18.学校を解体した結果、コミュニティの教育資源に誰もが自由にアクセスできるようになるので、おとなになってからでも学び直しや学び足しを自由にできるようになる。
19.共同体の絆が強まり、助け合いの精神が生まれ、結果的に多くの人が救われる。

このシステムの欠点
1.日本のマンガやアニメの土台である学校生活がなくなる。これなくしてはほとんどストーリーとして成立しないんだよなあ。
2.まあ、日本ではこんな大幅な改革を必要とする制度導入は無理。むしろ途上国で教育インフラがない国とかで実験的に導入するのはありかも。モンテネグロとか。
3.自主的でない子どもは自分で勉強できないかもしれない。ただ、地域で子供同士のつながりがあれば、最初自主的でない子どもはほかの子ども見て自分で勉強することを学ぶかもしれない…
4.自己管理能力がない子どもは勉強始めても最後までやり遂げられないかもしれない。ただ、地域で子供同士のつながりがあれば(以下略)
5.学ぶ科目のひとつひとつの項目について達成度をチェックされるので、高校からはちゃんと全部終わらせるのはかなり難しいかもしれない。ま、大学ごとに良い評価70パー以上で合格とかにすればいいのだけどね。これは今の制度とほぼ同じだ。
6.このシステムは単純な通信教育になってしまうと機能しない。地域の私的/公的なサポートが絶対に必要だ。
7.周囲に賢い子がある程度いる地域はいいけど、バカばっかの地域の場合キツイ。が、ワタシの生まれた地元でさえも勉強のできる生徒はけっこう周囲にいたので、日本であるかぎりそんなに問題ないはずだ。離島以外は。
8.このシステムだと、子どもの時からある種の人気システムにすべての子どもが組み込まれることになるので、人気のない子どもは最初から最後までハードモード。ただしこれは今と変わらないという見方もできる。

以上。お付き合いありがとうございました。

最近出たアメリカ系歴史や経済の本を読んでみなかった

アメリカ人が書いて、ここ数年のうちに日本語に翻訳された世界史や経済の本をアマゾンでチェックしてみた。すると、どれも実に適当な議論をしているようで腹が立った。一冊も読んでいないのだけど。

最近はアマゾンのレビューが充実しているので、当該の本を読まなくてもけっこう内容がわかるし、ちゃんと批評もしてくれているのでいい点も悪い点もわかる。なので、まなくてもその内容がかなりの程度わかる気がする。

いや、本なんてまないと何もわかんないよ、という人は、いい本を読んでいるのだと思う。とくに古典なんかは読む人によって受け取り方が全然違ってくるので、まないとわからない。が、最近出た本というのは古典に較べて内容が薄いし議論が一辺倒なので、まなくてもある程度わかるのだ。いや、最近出た本にも古典レベルの内容のがあるだろ、という人もいるかもしれないが、そんなことは百、いや千に一つレベルでしかない。

と、言い訳を書いたところで、まったく読んでいない本の感想を書いていこう。

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『国家はなぜ衰退するのか: 権力・繁栄・貧困の起源』ダロン アセモグル& ジェイムズ A ロビンソン

これ、国家が繁栄するには経済体制が重要という議論を展開している本。「収奪的制度」が選択されている国では経済成長が阻害されて衰退し、「包括的制度」が選択されている国では成長するということ。まあ、これは言葉の定義次第でいくらでもそういうことが言えるだろうし、そう言うこと自体は悪いことではない。

けれども、こうした議論は現代においてのみ当てはまるもので、現代以前には当てはまらない。というのも、近代以前はどこも「収奪的制度」だったわけで、例外は江戸時代の日本くらい。もっとも、本書は江戸時代を「包括的制度」ではなく「収奪的制度」だったとしているらしいが、これは土地に課された税金についてのみ言えること。実際、商業は江戸時代には世界のほかのどの国より栄えていた。

まあそれはいい。そもそも、この本の目的は、「今日の貧富の差はどこに起因しているのか」ということを解き明かすことにあるらしい。だが、上記の議論ではこの問題に半分も応えることはまずできない。歴史的な見地が欠けているからだ。

西洋の元植民地が貧しいのは先進国に簒奪されたからであり、本来の生産能力を奪われて西洋の求める産物のみを生産するように経済が作られたからだ。このくらいのことは誰でも知っていることなので、これをわざわざ無視して議論をするのは一種のプロパンダと言っていいレベルだと思う。おまえらはどんだけ自分らがしたことの罪を認めたがらないんだよ。


が、こういう議論をしている本はこれだけではない。

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エイミー・チュアの最強国の条件』では、歴史上の最強国家がどれも寛容であり、寛容こそが繁栄の条件であったと議論している。筆者が例に出すのはペルシャ、ローマ、唐、モンゴル帝国、そしてアメリカである。アメリカっていうのが出てくる時点でもううさんくさい。

アメリカが最強なのは経済的繁栄を元にした軍事力が背景にあるのであって、寛容だったからなわけがない。まあ、他国からの亡命者を受け入れたりはしているが、それが繁栄の十分条件ではない。ローマにしても最強だったのは軍事力があったからで、やっていたことは略奪と収奪だった。

まあ、世界史上の大国が寛容だったというのはそのとおりかもしれないが、それは原因と結果を取り違えているとしか思えない。ローマでは新しい植民地は必ず課税された。こんなの誰でも調べれば分かること。

世界史上でほんとーに寛容だったのはいくつかのイスラム系の帝国だが、それについてはあまり触れていないようだ。ムスリムの帝国が寛容だったとかいうと政治的にアレなんだろう。つまり、この本自体が政治的なもので、経済に関するものではない。


で、レビューにこういうのがあった。

著者の日本に向ける眼差しは寛容とは程遠い、第二大戦前、戦中に連合国がバラまいたプロパガンダから一歩もでていない。 日本は世界制服を企んだ、邪悪な人種差別主義の帝国だそうである、とって付けたように台湾統治は恩情、寛容をしめしたと多少は評価しているが、朝鮮統治にかんしては戦後、韓国の主張する、史上最悪の植民地の丸写しである。 著者は中国系アメリカ人で彼女の日本に対する認識はまさに第二次大戦の戦勝国の独善と中国人の日本に対する憎悪から非常に偏っている。

はい、こういうところで著者の本性というのはモロに出る。アメリカ系の学者の書物というのは、往々にしてプロパガンダが目的になっている。これはその胸糞悪いいい例だ。


が、例はこれだけではない。


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ニーアル ファーガソン『劣化国家』

これは西欧の衰退の原因を探ろうとする本。これもレビューを見る限り、西欧が一時的に豊かになれたのは植民地政策によるものだという歴史的視点が欠けている。これもアメリカ人が書いたものだが、アメリカでは植民地経営の歴史とか教えないんだろうか? 南米ではこれすごいスタンダードな話題なんだが。


レビューにはこうある。

西欧の衰退と新興国の台頭という世界経済の大きなトレンド変化を制度論、公的債務、複雑過ぎる金融制度、法律家の支配、市民社会の衰退等の視点から分析している典型的な西欧の悲観論です。

言わずもがななんだけど、制度が原因じゃないよね。日米や、植民地として簒奪されてきた国が相対的に経済的な地位を高めたから、西欧の経済的な優位性が下がってきたというだけ。


「民主的な制度は全て自分たちが作ったのに、なぜ衰退期に入ったのかという戸惑い」が書かれているみたいなんだけど、こういう意見、すごい典型的なんだよね、欧米人に。「民主主義国家なのになんで衰退するんだ」とか「中国は民主主義じゃないのになんで経済成長するんだ」とか。どー考えても民主主義と経済成長は関係ないだろ。アメリカ人はとくに「民主主義は正義。これですべてに勝つる」みたいに考えていてマジで気持ち悪い。

が、気持ち悪いのはこれだけではない。

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上と同じ著者による『文明: 西洋が覇権をとれた6つの真因』では、衰退する前の200年間西洋が世界を支配することになった6つの理由を書いているらしい。で、その理由がお笑い。

「苛烈な競争心」「科学の発明とそれを主義としたこと」「所有権に基づく選挙で選ばれた政府を持ったこと」「近代医学の発達」「消費社会の形成と生活水準の向上」「プロテスタンティズムによる勤勉と貯蓄」

だって。くっそ笑える。おいおい植民地支配はどこに行ったんだ? いいか? 西洋が世界を支配したのは、古代ローマに習って世界に植民し、現地に国家機構と市場経済をインストールして現地民を半ば奴隷としたこと。また、本国で生活必需品の大量生産を行い、それを植民地に売って大儲けしたこと。さらにその経済活動を支える資本主義があったこと。この3つなの。この著者があげる6つのどれも違う。どうやったらこんな見当違いのことを議論できるんだ?


実際アマゾンのレビューでも、

西洋が覇権をとれた6つの真因というが、6つ全て説得力がなく、無理やり感があった。情報も整理されていなく、非常に読みにくかった。この人の授業を聞いていてハーバードの学生は大丈夫?? こういう本を読むと、日本の学者の方がよほど、きちんとしているし、誠実に学問に取り組んでいる気がします

とか、

このような世界全体を対象とした書なのでやむを得ないことだが、決して厳密な史料の精読に基づいて西洋が優位性を確立する過程が論証がなされているわけではない。あくまでも著者の歴史思想を知るための本である。筆者には、ところどころに垣間見える欧米寄りの視点が気に食わなかった。ヒトラースターリンが大量虐殺を行ったことを批判しながら、アメリカの原爆投下が大量虐殺であった点には全く触れず、それに続いた核兵器開発が戦争の抑止につながった点を強調している(377−379頁)のには、気分が悪くなった。

と書かれている。最後の点、まあそうだよね。こういう中身のない本を書くアメリカの学者はみんなこういうタイプ。つまり人種差別主義者にして西欧優位思想の持ち主。

だが、こういうのはこいつだけではない。

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J・ダイヤモンドの『文明崩壊』では、これまで著作で彼が隠してきた(それでも見え隠れしてきたのだけど)人種差別的思想がモロに全開になっている。

あるレビューでは、ここで論じられている江戸時代についての記述の誤りについて逐一指摘して、こうつぶやく

日本に関する部分は少ししかないが、その中でもこれだけ間違いやおかしい部分があると、にわか知識で書いたと思わざるをえない。そうなると本書の他の箇所や全体的な信憑性は疑わしい。全編を通して、どうもおかしい記述や推測・憶測が多くて首をかしげるところがある。

はい、「にわか知識で日本や中国について適当なことを言いたがるアメリカの学者はみな人種差別主義者である」の法則発動の予感がするよね。


レビューには続けてなんとこうある。


それと本文中に頻繁に出てくる、人種差別的な表現や悪趣味な皮肉、自民族中心的な異文化軽視・偏見には辟易させられた。

長々と中国からの外来動物と植物による生態系の破壊を述べた後に「中国に溢れるほどの個体数が存在し、生態系と経済に大きな影響を及ぼしつつ、諸外国へますます数多く輸出されている種は、ホモ・サピエンス、つまり人間だ」と中国人は害虫と同列扱い。

その反面オーストラリアの章では白人による外来種の持ち込みによる生態系の破壊と環境破壊には素朴な望郷心が結果として悪影響になってしまったような同情的で擁護するような記述なのは呆れる。

そもそも章のタイトルが「搾取されるオーストラリア」である。白人による環境破壊はまるで日本、韓国、台湾などの企業がオーストラリアの資源を搾取していることが原因かのような記述なのだ。

特にオーストラリアと日本の間の貿易に対する記述では「経済発展も工業化も遅れた交渉に不慣れな第三国の植民地が先進国と取引する場合」に似ていて「オーストラリアは貴重な資源を気前よく差し出しながら、その代価をほとんど受け取ってないように見える」とまるで日本がかつての欧米が植民地にした悪質な搾取をしているような物言いである。

その上で、先進国の中でも森林面積の割合の少ないオーストラリアが、先進国の中でも森林面積の多い日本に木材を輸出している事は皮肉であると記述しているが、ここでもまた数値を「割合」で記述し事実の逆の記述をしている。

実際のオーストラリアの森林面積は日本よりもはるかに多い1億6440万ヘクタールと、前出の中国に匹敵する森林面積を保有していることがわかる。

これもう決定的な指摘なので長々と引用させてもらった。すごいよね。これだけ日本に敵意をむき出しにして、オーストラリアが搾取されていると言うとか。おまえはどんだけ白人優位史観で生きているんだ。

もうね、これだけ世界的に有名な学者がこういう人間なのかと思うとほんとにめまいがする。



しかもこいつらみんなアメリカのいい大学で教えてたりするんだよ? 経済や社会学学びにアメリカに行くとか絶対やめた方がいいってことハッキリわかんだね。

上のレビューでもあったけど、ほんと日本の学者のほうが良心的だしちゃんと調べてもの書くと思うわ。アメリカ人は英語で書くと世界中にやくされるからなあ。で、それが影響力を持ってしまう。これ、学術書の体裁で書かれているから、ナイーブな人はそこにしこまれているプロパガンダに簡単にやられてしまうと思う。真面目な人ほど人の言うこと真に受けるからね。


ほんとに、こういう最近のアメリカ人が書いた本を読むよりも、日本人が50年前に書いた『合理主義 ヨーロッパと日本』とかを読むほうがずっとベンキョウになると思う

ここでは、西洋が覇権をとった理由についてこう書かれている。レビューから引用する。

「イギリスの木綿その他の商品がはいる前には、現在から見るとひじょうに美術的な価値ある織物を織って、身にまとっていました。綿を畑から取り、糸につむぎ、そして織っていたのです。染料も自分たちの手でつくった。

しかし、機械製品は多量生産ですから、まず第一に、手工業よりもはるかに安価です。

第二に、均質であって、同じ程度のものが、同じようにできています。

したがって、いったんその生活の中へ機械製品が入ってくると、自分たちで作っていた(中略-)ような織物は、完全に駆逐され、崩壊していくことになります。

その結果どういうことになるか。

現地の人々は、原料である綿は自分でつくっている。しかし、もはやそれを自分たちで織って着るわけにはいかなくなった。それは売らねばならない。そしてこんどは、織物としてできあがったものを買わなければならないことになった。この優越したヨーロッパの方法を自分のものにしない限り、この状況は長く続きます。織る人、染める人がなくなり、技術も伝達されなくなりました。

こうして、原料は買ってもらわなくてはならない。製品は売ってもらわなくてはならない。

そうでなければ日常生活を営んでいくことさえできない。これが植民地の人々の追い込まれた姿です」

この段落だけで上にあげた数冊の本の何倍もの価値があると思う。ま、現代のアメリカ人なんかに植民地経営時代の現地のことなんかわかるはずないしな。

しかし、昔ハンチントンの『文明の衝突』が出てきたときにかなり叩かれていたけれど、いま思うとあれは全然まともだよなあ。あ、彼の弟子のフクヤマはクズだったけど。

こうしたアメリカの学者たちがデタラメなのは、欧米ではたいして勉強してなくても、とにかく自分の主張を言うことが賞賛されるからなんだよな。欧米では日本みたいに、「その研究はどこが新しいの?」みたいな質問はまずされない。それはいいことでもあるんだけど、行き過ぎるとまずい。

まあでも、上のようなダメな研究が幅を利かすのは、それ以外の要因があるだろうけどね。言っちゃうと、こういうのは研究の皮をかぶったプロパガンダにすぎない。で、アメリカ全体にそういうのを喜んで世界に発信しようと言う機運があるんだと思う。

こういう、自分に都合のいいように真実を隠して、嘘の学説を流布させようという行為、こういうの中国もよくやってるよね。ただ、中国の場合は信用されないのに対し、アメリカのは信用される可能性がっけこう高い。両者の本質は同じなのに、発言力には雲泥の差がある。まあもともとの言語がもつ発言力の差以前に、アメリカの学者のほうが学問的な衣装をまとうのがはるかにうまいってのはあるけど。

とにかく、アメリカの学者ってだけで世界中の人が無批判に信用しすぎなんだよね。あいつらの根底は、アメリカ最高言いたいだけの人種差別主義者だってことをみんな知っておいたほうがいい。

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追記

似たような話題の本で名著と呼ばれるものは出ているようだ。ポメランツ『大分岐―中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成―』がそれだ。名古屋大出版局というお硬いところから出ているのもいいね。

レビューを見ると

著者ポメランツは、ヨーロッパ中心の世界史の見方を退け、ユーラシアの東西で主要地域の生活水準は1800年ごろまでほぼ同じか、東アジアの方が高かったという。いずれもゆるやかな経済成長をとげ市場も発達していたのだが、それにともなう人口増大の結果、資源となる森林などの生態環境の制約に直面していた。そこから、まずイングランドが、次いで西欧が大きく逸れて独自の径路をたどるようになる、つまり、西欧の発展径路をスタンダードと見るのではなく、ユーラシアの東西で共通していたあり方を本来のものと見て、そこから西欧が「逸脱」したと捉えるのである。そして、西欧が、生態環境の制約を脱してこの径路をたどりはじめた要因を、アメリカ大陸からの資源の収奪に求め、イングランドがまず分岐した理由については、石炭つまり化石燃料が生産の中心地の近くで発見された地理的偶然性にあるとする。その意味で、イングランドや西欧がそれ以前から東アジアなどと比べて特別にすぐれた制度もっていたわけではない(制度が無関係だというわけではないが、「大分岐」を最終的に説明するものではない)という。

そらね。ちゃんとした研究書は普通はこういう結論になるものなんだよな。ま、この本は専門的すぎて退屈そうだけど。

同じ著書の『グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界』のほうが読み物として面白いみたいね。テーマもほぼ同じだし。


この漫画が面白い2 普通に傑作編

この漫画が面白いその2。

今回は普通に傑作な作品を6つあげてみた。ジャンルモノは好き嫌いがあって、楽しめる人とそうでない人がいるってことは(理解したくないが)わかるっちゃあわかる。でも、傑作というのは好き嫌いに関係なく傑作であり、そういう作品を楽しめない人というのは人間的に何かしら欠落していると思う。
6つのうち、女性作家によるものが4つ、男性によるものが2つだった。女性作家が描くものは男性作家のそれとはなんか違うんだよなあ。

かくかくしかじか東村アキコ

自分は絵がうまい。本気でうぬぼれていた林明子(高3)は竹刀を持った絵画教師・日高先生に鍛えられ、絵画を一から学ぶ。作者の実体験を元にしたマンガ。

マンガ大賞も取ったので有名なこのマンガ、最近完結した。これ、ほんとーに思い出を話しただけのマンガなんだよね。でもそれがあまりに特殊な思い出なので、それだけでマンガ大賞とれる、それくらいすごい。元気と愛情の塊みたいなスーパーな人間、日高先生とその恩に生きている間には報えなかった(と思っている)作者の在りし日をつらつらと描いていてただただ泣ける。


この世界の片隅にこうの史代

戦時中に生きる主人公、すずは広島市から呉へ嫁ぎ、新しい家族、新しい街、新しい世界に戸惑う。しかし、一日一日を確かに健気に生きていく…。上下巻

夕凪の街 桜の国』で大ブレイクしたこうの史代さんの作品。ちょっと前のだけど、これもすごいいい作品なのでリストに入れた。こういう、普通のリアルな日々を丁寧に描くマンガって実はすごい希少なんだけど、その中でも戦時中のものってのはこれしか読んだことがない。普通に人生を生きている人の姿の味わいというのがひしひしと伝わってくる。これも漫画史に残る傑作だと思う。
絵柄も流行りじゃないのにこれだけ支持されるこうの史代さんは、ちょっと特殊な才能の持ち主だと思う。この人は「こうの史代」マンガという唯一無二のジャンルを築いていくような気がする。



聲の形大今良時

小学生の時、石田将也は耳の聞こえない転校生・西宮硝子をいじめ、彼女は転校していった。そして、将也はひどいじめっ子としてボッチになり、そのまま高校生になった。幾年の時を経て、将也は もう一度、硝子に会うのだが…。京アニで映画化決定。

2013年に読み切りが載った時点から話題だったこの作品も最近完結した。とにかく絵がうまいので、ちゃんと話せない硝子の微妙な表情なんかがよくかけていて説得力があるし、女の子もみんなかわいい。主人公視点の語りに狭めて話をすすめているのもいい味を出している。いや、そういうことよりも、今まで、昔いじめっ子だった人が主人公のマンガって読んだことなかったんだよな。で、いきなりこのテーマの金字塔というか、今後絶対超えることができないものを出してきた。なんなのこの才能。
登場人物は多いが、基本主人公視点なのでみんな本当は何を考えているのかわからない。でも、最後の方に少しずつ本性がでてくる。それがすごい面白い。はじめは(悪く言えば)変な設定のラブコメだったのが、一気にシリアスな思春期ものになった。この作者、正義ヅラした普通の人キライで、どこか歪んだ人間が好きなんだよね。そう、ワタシもそういう人が好き。作者はきっと美人だと思ったら、実際すごい美人だった。硝子みたいな可愛くて心のキレイな存在描けるのは美人だけなんだよなあ。あ、ワタシのお気に入りはその妹の中学生の方な。

↑作者 ペンネームは男性っぽいが、作品読めば女性ってのはすぐ分かる。この人大作家になるよ


僕だけがいない街三部けい

青年漫画家の藤沼には時間を巻き戻らせる能力があり、不意に発動することがあった。彼には、子ども時代、同級生の失踪事件が相次いだことがあり、その事件について思い出させることが最近いくつかあった。ある日の事件をきっかけに彼は小学生時代に戻り…

荒木飛呂彦の助手だったという作者の傑作。これは、一つ一つのページを息を呑むような気持ちでめくって読んだ。それくらい緊迫感がある話。語り方も面白いし、ストーリーの見せ方もとんでもなくうまい。ネタバレ怖いからあんまり話せないけど…。このマンガは死ぬほど好きで好きすぎて生きているのが辛い。いま六巻まで出てて、犯人がようやくわかったところ。


それでも町は廻っている石黒正数

大田区の下町・丸子で育った女子高生、嵐山歩鳥を主人公に、彼女の周りで起きる日常の出来事を中心に描いてゆく日常コメディー。シャフトによりアニメ化もされた。

いま14巻まで出ているこれは息の長いシリーズ。日常が舞台つってもリアルなそれではなくて、漫画的なそれ。どことなく昔のマンガの雰囲気を持ちつつも、ギミックは新鮮で飽きない。というか、巻を重ねるにつれて面白くなってきている。話の時系列がかなり違っているのに説明がなかったり、別の回でちょろっとでてきたものが今回のキーアイテムになっていたりと、ハマり要素がある。アニメ見ていいやと思った人も、漫画版は別物なので読むべき。


海街diary吉田秋生

鎌倉で暮らす三姉妹の元に、自分たちが幼い頃に離婚して家を出て行った父の訃報が届いた。長女・幸の頼みで葬式に出るために山形へ赴いた佳乃と千佳は、そこで年齢の割にしっかりしている中学1年生の異母妹・すずと初めて出会う。すずを引き取った三姉妹は四姉妹となり、鎌倉での生活を続けていく…

マンガ大賞をとって映画化もされた言わずもがなの名作。吉田秋生は80年代にブレイクした大御所レベルの少女マンガ家だし、ガチで大好きな作品も多いのだが、BANANA FISH』みたいな愚作を出したりもしていた。が、この海街diary』は数人の登場人物の心の襞が細かくかつ重層的に描かれていて、漫画家として一段レベルアップしたかのような感じ。この作品で吉田秋生大島弓子山岸凉子といった「伝説級」の少女漫画家に迫った。
いや違う。偉そうなこと言ってしまった。ほんとは、ワタシは吉田秋生BANANA FISH』なんかより少なくとも2つ上の作品を描く作家だと思っていたのが、3つ上の作品を出してきてくれたので、昔からのファンにとっては嬉しいかぎりというだけだ。
鎌倉の風情もうまく織り込まれていて、登場人物も中学生から社会人まで幅があり、それこそかつての少女漫画のような文学的な薫りがする。今これだけのものを描けるのは吉田秋生だけだと思う。


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というわけで、比較的最近の作品をあげてみた。どれもマンガ好きなら絶対知っているはずのものばっかりだけど、やっぱりいいものはいい。というか、リストにしてみて、これ以上の作品をほかに思いつかないとまで感じた。それくらいここにあげた作品はどれも抜けている。
きっと、マンガガチで好きな人100人にいま熱い傑作を選ばせて、そのうちよくあがった作品名を10個までしぼると、そのうち5つは上にあげた6つのうち5つが占めていると思う。それくらいこれは定番なリストだと思うので、「普通に傑作」というタイトルにした。