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日本の思想 1「労働と安心」

いま不人気のアベノミクスだが、当初は大人気だった。まあ、そんなこと多くの人は覚えていないかもしれないし、どうでもいい。今回注目したいのは、安倍首相の所信表明演説である。

むかし、私はこの演説を聞いていて、日本の保守思想というか、日本人の根底にある、ある信念を垣間見た。それは、二度にわたって繰り返されたので、もう見逃しようがない。

一つ目は、「今こそ、額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、まっとうな社会を築いていこうではありませんか。」という部分。2つ目は震災の被害にあった母親が子供にあてた手紙の引用で、「げんきに学校にいってくれるだけで、とてもあんしんしていました。」という部分。この二つの言葉は、日本の保守思想を象徴する文章であるといってよい。

日本の保守思想、それは、学校に毎日通って就職して、額に汗して働けば、幸福な人生を送れるはずだ、という信念である。ぼくが思うに、日本人の95パーセントくらいがこの思想を持っている。たとえ選挙で共産党に投票するような人でも、この信念を持っている。そうでないのは、子供を進学校ではない普通科の有名私立高校に通わせるような親か、ヤクザか、フリーの芸術家だけだ。ちなみに、純日本人の自分の子供を好んでインターナショナルスクールに通わせるような親も、ほとんどがこの保守思想を持っている。

なぜ、「学校に毎日通って就職して、額に汗して働けば、幸福な人生を送れるはずだ」というような当たり前の考えが保守思想なのか、と思うかもしれない。それは思想どころか、現実そのものだ、という人ももしかしているかもしれない。しかし、この考えが日本の社会システムの大本をなし、この考えに従って人々は人生を設計し、生きる、という意味で、これは思想以外の何物でもない。何も、偉い思想家の言うことだけが「思想」なのではない。むしろ、人々がそれをそれとして意識することはないが、しかし強固に抱いていて、それを元に自分の行動や人生を決定するような、そんな考え、それが本当の意味での思想なのである。

戦後、日本では大学入学率が急増した。それは、多くの人が、それなりの学校に行き、それなりの会社に就職すれば、それなりに一生安泰だと思ったからだ、事実、日本はその理想に一致した社会を実現していた。それはこの世に出現した楽園かと思われた。だがもはや今やこの理想は幻想でしかない。会社の寿命は短くなり、一生同じ会社で正社員でいられる保証はどこにもない。

日本の社会は変わったが、未だにこの保守思想は生きているし、この思想あるいは理想の実現のために学校教育はなされている。きちんと学校に行って勉強すれば、会社に就職できるはずである、という理念の元に、日本社会はある。いや、毎日学校に行く、ということ自体が、手段ではなくすでに目的である。なぜならそれは、「まっとうな人生を生きている」ことの証明であるからだ。会社に毎日行くのも同じ意味を持つ。「げんきに学校にいってくれるだけで、とてもあんしんしていました。」というある母親の文章の意味は、震災によっても生活が破壊されず、まっとうな生活を送っている、という安心感、それが子供が学校に毎日行くことによって得られる、ということだ。これは日本人としてごく普通の実感だと思う。しかし、この実感にまさに保守思想の核心がある。

現代日本の保守思想、それは、「安心感」の特定の仕方での追求にその動機がある。現代社会における安心とは、一生の生活が保証されている、ということを意味する。学校に行き、就職し、「額に汗して働けば」、一生安泰、それが現代社会における安心だ。安倍総理は「額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる」社会といっているが、これは演説的に美化した表現であって、真実ではない。大事なのは「未来」への「夢や希望」なのではなく、「一生」の「安心」なのだ。人類の95パーセントは、希望や夢よりも安心を好む。仕事、保険、毎月振り込まれる給料、それが現代社会に生きる人類に必須の安心なのだ。

いや、より正確に言うなら、日本人は給料そのものよりも、毎日仕事に行くことそのことの方により価値を置いているようにも見える。なぜならそれは「まっとうな生活」だからだ。同じように、子どもが学校に毎日通うことは、そこで勉強する内容よりも大事である。これは言うまでもなく、労働者の価値観である。自らの立場を思想的に正当化しているプロレタリアート、それが大多数の日本人である。もちろん、彼らは自らの階級がプロレタリアートであるなどとはみじんも思わない。

さて、この思想は、それゆえ、人生というレールについての思想でもある。というか、人生を一つのレールとして捉える発想、それがこの思想だ。ゆえに、この思想は、学校→就職→仕事=安心、という式で表されるだろう。それ以外の道、たとえば、学校中退→起業→上場、なんていう道は安心とはほど遠い、波乱に満ちた博打な、忌避すべき人生となる。 なぜならそれはプロレタリアート的な安心な人生ではないからでである。

この、安心を第一に求める思想、それは明らかに保守思想である。これは必ずしも世界で支配的な思想ではない。たとえば、欧米では安心よりも、個人の誇りを優先する思想に則って社会が構築されている。つまり個人主義だ。誇りも安心も人間が生きていく上で絶対に必要なものだが、どちらに重きをおくかによって社会のあり方は変わる。人がどちらの社会をより好むかは、その人の持つ思想によって決まる。多くの日本人は、個人主義の欧米で暮らすより、安心主義の日本で暮らすほうを好むだろう。日本社会は、安心が唯一最大の価値であることに特徴がある。また、人の安心を守り犯さないこと、それも絶対的義務として人々に課されている。

もちろん欧米でも、人生における安心というのは価値のあるものだ。しかし、日本ほど一本道な人生というのはまずイメージされないし、共有されていない。実際、転職、国外に移住なんてことが日本よりずっと頻繁にある。それ以外の途上国では、学校→就職→仕事というのは一部の人だけが実現可能な夢の道だ。尤も、先進国でも若年就職率、それも大学卒業者の就職率は悪化するばかりで、日本的な理想の人生を送るのはまあ難しい。あと、欧米社会では、(日本的な意味で)人の安心を保証するなんてことは義務でもなんでもない。日本では誰かがニュースになると、そのニュースの当人が「お騒がせしました」と謝罪するが、あれは、日本では人の安心な生活を間接的にでも犯すことが最大の罪だからである。そう考えないと、「お騒がせ」したことに対する謝罪することの説明がつかない。

私は、今の日本に必要なのは、「額に汗して働けば必ず報われ、未来に夢と希望を抱くことができる、まっとうな社会」だとは思わない。というか、それはもう実際無理だ。社会が大きく変わる時期には、人々は安心に包まれた人生を送れない。だが、問題はそこにはない。日本に必要なのは、たとえ労働が報われなくても、人が絶望することのない社会を作ることだ。また、一本道の道を敷き、そこから外れた者を見下し排除する社会ではなく、あらゆる人がまっとうな人生を送ることができる社会を作ること、それが必要だ。

私が日本のこの思想の存在に初めて気づいたのは、大学に入るために浪人したときだった。日本で、浪人するということはあってはいけないことであり、人生のまっとうなレールから外れることである。別に誰かにそう言われたわけではないが、そうした考えの存在になぜかはっきりと気がついた。日本では、人生は一本のレールであり、そこから外れること、それは人生そのものに失敗することなのだ、と。

いまの日本は、私が言う「保守思想」があまりに根強いため、それ以外の思想を持ち生きる人物が、社会のセーフティネットに入れない傾向にある。そして、一旦社会的弱者になれば、そこから抜け出るのは難しい。日本社会の本当の問題はそこにある。そして、その問題を、保守思想への盲信が固め、より大きなものにしている。