ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

MMORPGにおけるインフレ問題についての面白いブログがあった

一つ前の記事でドラクエ10RMT問題について書いた。じつは、オンラインゲームにはRMT問題とは別に、インフレ問題というのがある。これ、前の記事で分けずに書いちゃっているのだが、RMTとインフレ問題はもともとは別々の問題である。

 

確かに、個人間取引を許可している以上、RMTも起きるし、インフレも起きる。なので、原因は同じだが、事象としては別のものである。もしRMTが起きていなくても、インフレは起きる。

 

さて、個人間取引を許可しているMMORPGにおけるインフレ問題について、合成と宝石、さらにはリセットというシステムによって強引に解決しているディアブロ2という例について詳しく書かれているブログがあった。これはむちゃんこ面白い。

 

ドラクエ9の合成はなぜ間違いで、ディアブロ2の合成はなぜ正しいのか。

 

www.sinseihikikomori.com

 

要するに、確率の合成によってアイテムが消える。それによってインフレが抑えられる。希少な宝石も必要なのでやはりインフレが抑えられる。最後にはサバーリセットによって1からやり直しとなる。そういうシステムが2000年に存在したMMORRGにすでに導入されていたといのが面白い。

 

で、この合成システムがオフラインRPGであるドラクエ9になんの考えもなく採用されいてクソゲーとなっているという指摘もこれも面白い。さらに、そのことを脳みそが沸騰するほど憎んでいるのが伝わってくるこのブログの文章の熱量がすごい。頭が良くてまだ若い人が書いているんだろうなあ。

 

 

しかし8以降のドラクエはやってなかったけど、そんなことになっていたんだなあ。堀井さんが全部作っていただろう7くらいまではそんなアホなシステムとか絶対に導入されなかったのに。

 

日本の会社が作ったゲームというのは、ミニゲームみたいな適当なゲーム内ゲームをゲームの中に作って、はい、これで遊んでね、面白いでしょう、みたいなのが多い。たとえば信長の野望における画面切り替わるたぐいの戦争みたいなの。ちゃんとした戦争のゲームを作ればいいのに、アホみたいな適当なのを遊ばせることがゲームだと思っている。

 

こういうの、精確に何と言えばいいのかわからないので、うまく名づけられないんだが、とりあえず「日本のゲームのクソ仕様」とでも言っておこう。そういうのが、日本のビックタイトルであるドラクエにまで蔓延しているというのは、ゲームを作る人間がゲームで面白いってことを本当には知らないってことなんじゃないだろうか、と思わせる。

ドラクエ10の話題ついでにRMTを不可能にするゲームシステムについて

ドラクエ12が発売される予定というのがニュースになったので、ドラクエのことを思い出したり調べてみたりしてみた。わたしがドラクエを初めてプレイしたのは1980年代なので、もう30年くらい前のことになる。はるか昔だ。

 

ドラクエは1から6まで自分でプレイしてクリマまでやって、7はプレイしたが途中までで、8以降はほとんど触ってない。ドラクエ11がゲーパスに入っていたので少しやってみたが、30年前と同じゲームシステムだったのに閉口した。検索してみても、やはりみんな古いゲームだと思っているようでちょっと安心したりした。

 

あの戦略性も戦術性もほとんどない(全くないとは言わない)戦闘システムが未だに採用されているというのがとにかく驚きだ。敵側にしてみても、ランダムエンカウントなので、洞窟の一箇所に罠をはって待ち構えるみたいな戦術性もないし、味方の側も前衛後衛すらない。コマンド入力自体はシステムとしてありだが、それはXCOMみたいな見下ろし型のストラテジー戦闘システムでのみ今日許されているもので、ドラクエ型だと81年発売のWIZARDRYよりも戦術性がない。

 

せっかく2010年代にゲームをさわるというのに、あれではいかにも進歩がない。ドラクエはビックタイトルなので、どうしても子どもなどの目に触れやすく、あれで遊んでしまうのだと思うが、今どきあんなのをプレイしていてはアホに育ってしまう。大人にしてみても、未だにあんなのを楽しくプレイしているのは進歩がない。だから日本は30年間もほとんど経済成長していないんだと思う。いや冗談抜きで。

 

やばいぞ日本。どーせお前らドラクエだけじゃなくて、音楽でもずっとB'zとか聞いてるんだろ? だからいつまでも新しいことに挑戦しないで、コストカットばっかりして、進歩がないんだよ。はーあ。

 

ところで、ドラクエ10はオンライン、しかもMMORPGなんだったっけ。これ、ちょっと前にこのゲームをひたすらやってたクズが父親に殺されて話題になったりしていた。まあ、そのニュースだけで判断するのは危険だけど、いかにも引きこもりが俺ツエーしてそうなゲームというイメージはそう間違っていないんじゃないかと思う。

 

で、ちょっと調べてみると、このゲーム、RMTリアルマネートレードがかなり盛んなゲームだということがわかった。なにしろ、「ドラクエ10 RTM」で検索すると、スクエニのサイトよりもRMT取引サイトのほうが上位に表示されるくらいだ。取引サイト自体もたくさんあって、口コミには「取引位一週間後ですがBANされていません。大丈夫なようです」みたいなのがある。これはちょっと面白そう。

 

何しろ、RMTは規約で禁止されているというものの、法律では禁止されていない。じゃあグレーかよ、と言うとそうでもなくて、韓国なんかではRMTする側に有利な判決が出ていたりもする。運営側もそれを知っていて、裁判に持ち込んで「RMTは合法!」という判決が出たりした日には目も当てられなくなるので、「規約では禁止」以外のことを言えないのだ。

 

が、外国では面白い事例がある。たとえば、「R.O.H.A.N」ではRTMをOKにしていて、EverQuest IIでは公式がRMT取引システムを立ち上げていたりする。これは、RMT自体をビジネスにしてしまおうという動きだと思うが、問題もある。というのも、運営側がもしある特定の人物(大抵は運営者自身だろう)にゲームの更新情報を前もって流せば、いくらでもお金を不正に稼ぐことができて、それを現実のお金に換えることができてしまう。あるアイテムが次のイベントで有効だとか、有効でないとか、そういう情報。

 

ちなみに、こういう情報は4gamersにおけるRMTについての対談を元にしている。この対談のなかで、「ゲーム内のアイテムは価値観であって、価値ではない」という発言があって、なるほどと思った。たとえばあるアイテムがいくら希少で有効だからその時は高値がついていたとしても、運営側が次の新しいもっと有効なアイテムを大量にばらまけば価値はなくなってしまう。なので、ゲーム内の資産というのは価値観でしかない。これはなるほどと思った。であるなら、RMTで得たゲームのお金やアイテムは現実の価値ではない。というか、そもそもの話として、もしゲームの中のお金が現実のお金と互換可能なのだったら、稼いだお金に応じて税金払わないといけなくなる。それはヤバい。

 

で、もとの話に戻ると、ドラクエ10ではRMTを規約として禁止しているのだが、この理由はわかる。不公平だし、何よりもRMTがあることでゲーム内のモノの価値が異様な形で動き、インフレが起きる。結果として、運営側はゲーム内通貨の価値をいかに抑えるか、ということに心血を注がなくてはいけなくなる。これにはとても高度な経済学の知識が必要だし、面倒だし、なによりゲームの面白さ自体にあまり関係がない。わたしがこの事象を眼にしたのは初代リネージュ内においてだった。もう20年も前のことだ。

 

ドラクエ10の何が驚きかと言うと、古いMMOPRGのゲームシステムをなんの考えもなくそのまま真似して作ったせいで、20年前にすでにあったRMTの問題をそのまま持ち込んでしまっているということだ。国産タイトルでも前例としてFF11(合併前のスクウェアが発売)とかが2000年代初期からあったわけだが、何も学んでいなかったのかスクエニは? やばいぞ日本

 

実は、RMT対策というのはとても簡単にできる。個人間取引を完全に禁止すればいいだけだ。「それじゃアイテム取引できないだろ、なんのためのMMORPGだよ」という声が聞こえます。いいですか、簡単なことです。まず、お金だけの取引はできない。で、アイテム取引、これはすべて全員向けのオークションを通してしかできなくすればいいのです。時間は5秒とか1分とかの指定はできなくて、1時間から24時間まで。

 

これでRMTは完全に阻止できる。お金やアイテムの個人間取引ができないのだからね。「アイテムの値段はどーやって決まるんだよ、オークションだと結局お金のあるやつが持っていっちゃうじゃねーか」という声が聞こえます。それはRMTとは関係ないことだけど、即時購入される金額を必ず決めておけばいいだけ。30万でオークションに出せば、40万で必ず即決がつくみたいな仕組みにしておけば、出す方も面倒でないし、買う方もわかりやすい。

 

で、じつはこのシステムを装備しているゲームはすでにある。というか、そのゲームを見ながら「あ、これRTM問題の解決法じゃねーか」と思ったのがこのエントリのきっかけなんだけどね。そのタイトルとは……Forzaシリーズのこと。XBOXとPC限定ゲームなので知名度はないが、むちゃくちゃよくできたゲームだ。このゲームでは車をオークションで売り買いできるのだが、車を出品するときは初めの値段と即決の値段が自動で設定される。もちろん自分でいじることもできるが、はじめに設定されるのが相場というわけだ。

 

このゲーム、ゲーム内通貨で普通に買える車だけではなくて、イベントでしか手に入らない車もあるのだが、そういう車にも運営側が一応の値段設定を事前にしていて、そのあとは相場を反映して、出品するときに初めにつく値段設定がなされていくのだと思う。通貨の取引はもちろんできないので、RMT要素は皆無だ。

 

調べてみると、2007年のForza Motorsport 2ですでにカーオークション機能がついているので、2011年発売のドラクエ11でもこの機能をつけてRTM要素を排除することは可能だったのだ。しかし、Forzaのカーオークションなんてほとんどおまけみたいな機能で目立たないものだし、ましてやMMORPGRMTと関係があるなんて誰も思わなかったのだろう。たぶん、今まで誰も。そして今後も

ジョナサン・デミ『羊たちの沈黙』1990 背後にある暴力の連鎖

羊たちの沈黙』が金字塔的傑作と呼ばれるのは、今に続くシリアルキラー&サイコサスペンンスもののゴッドファーザー的作品であるからだ。原作小説でメインとなっているのは心理描写で、これは普通は映画では使いにくいはずだが、この作品では要所要所できちんと描写されており、画面に緊迫感を与えている。それを支えるのは言うまでもなくジュディ・フォスターとアンソニー・ホプキンズの名演である。これを私が公開当時見たときには、最先端のサスペンス映画に見えたが、いま見るといい感じに古びてはいるが、時代を超えた名作の雰囲気がする。


さて、この精巧に練られた映画のストーリーには、ある通奏低音がある。それは、「暴力」である。しかし、ここで言う「暴力」は、この映画に出てくる二人の犯罪者が画面上で犯す犯罪のことを指すのではない。そうではなく、バッファロー・ビルの犯人を追うクラリスと、犯人が同じように持つ過去についての暴力である。まず、ジュディ・フォスター演じるクラリスの父親は、彼女が子ども時に二人組の泥棒に殺されている。また、クラリス自身も父親の死後預けられた親戚の家で、子羊が虐殺されるのを目撃してトラウマになっている。クラリスが追うバッファロー・ビルの犯人は幼少期に虐待を受けており、それが元で人格を壊し、自身の変身願望を叶えるために女性の皮膚を切り抜いて衣服を作ろうとしている。


アメリカという国はタフな国である。みながみな自分の権利を主張し、それを人に認めさせようとする。そして、人によってその実現のさせ方が異なる。教養のある大人がほかの大人に対して自分の権利を主張する場合、これは主に言語や法律を通じて実現されるだろう。ところが、暴力を通じてそれを無理やり実現させようとする人間もいるわけだ。教養のない、または貧しい大人や、あるいは暴力によってしか自分の権利を得ることができない立場にある人間。また、大人が無力な子どもに対するときも、その大人が教養あろうがなかろうが、往々にして暴力が振るわれることが多いわけだ。


この物語に出てくる人物は、みな何がしかの暴力を受けてきている。だが、クラリスは受けた暴力を暴力で返すのではなく、社会的に昇華しようとしている。反対にバッファロー・ビルの犯人は、暴力の犠牲者であり、自身もまた暴力に呑まれている。この二人は対照的な立場にあるわけだ。だが、そのことを知るのはレクター博士のみである。クラリスは最後、すんでのところで犯人を射殺する。だが、彼女にとってそれがトラウマとなった様子はない。いま自分が対処できる暴力よりも、無力であった幼い自分が見た暴力の光景のほうが、彼女にとってはより恐ろしいものであり続けているのである。


昔は、この映画の題名がクラリスの個人的なトラウマに基づく言葉である「羊たちの沈黙」となっていることに違和感を感じていたが、今となってはその意味がわかる気がする。とはいえもっとも、silenceは「沈黙」と訳すべきではなく(羊がしゃべるわけではない)、「静かさ」の意味なので、「静かな羊たち」とでも訳すべきだ。まあこれだと締まりがないのだが。


とにかく、アメリカという国に偏在する暴力、それがこの物語自体を生み出しているのは確かだ。バッファロー・ビルの犯人の動機、クラリスのトラウマ、レクター博士に屈辱を与えるチルトン医師、そうしたものが見事に織り合わさって、一つの光景を生み出している。それがこの映画に比類ない統一性を与えていると言える。

日本のワールドカップ2018は終わった


2018年ロシアワールドカップまでちょうど一週間、日本のW杯はもう終わった。いや、一ヶ月以上前にすでに終わっていた。それが親善試合を終えて、より明らかになっただけだ。


W杯前の親善試合はガーナ、スイス、パラグアイ相手で、ガーナに0-2、スイスにも0-2で敗れた。あと一戦あるが、もう大勢に影響はない。今まで私たちがずっと見てきたダメな日本代表、それがあと一試合やそこらで変わるはずがない。


自分でシュートを撃つという気がない選手たち。敵のペナルティエリア前の狭い空間でパスを回そうとして取られる。自陣のペナルティエリア内でファウルをしてPKを与える。サイドバックが上がったところをカウンターされる。キーパーが敵にパスをする。とにかくシュートが少ない。


スイス程度の相手でさえ、明らかに日本選手は見劣りがする。FM的に言えば、能力値が揃っていないので穴になっている選手がいる。いや、これは精確ではない。はっきり言えば、どの選手もそのポジで必要な能力値が全て揃ってないので、必ず何かしらのタイミングで穴になる。リーグ下位のチームだと使い手がないこともないのだが、上位のチームだとレギュラーで試合には出れない、そういうタイプの選手たち。


もちろん、監督が代わったのも大きい。数試合しかないというのに、新戦術もクソもあるわけがない。新しいことはできない。しかし、前の監督の戦術は日本サッカー協会のメンツ上使うわけにはいかない。今、こういう状態なのである。


日本サッカー協会の愚行はいまに始まったことはではないが、これはかつてない規模だ。今回、わたしたちは二度三度、いや四度がっかりさせられることを強いられるわけだ。一度目はハリルホジッチ監督の解任。二度目は選手選考で。三度目は親善試合の結果で。そして最後に本大会の結果で。これがブラジルだったら絶対暴動が起きる。そういうレベルの耐えがたい事件だ。


Football Managerでは、一時期日本人選手がみな結構高く評価されていた。香川CA170を始め、ヒロキ160、ホンダ150くらいはあった。2013あたりのころだ。ところが、W杯の終わったFM2015では、欧州にいる日本人の評価が軒並み20ほど落ちた。例外なく。なぜだかおわかりになりまるだろうか? そう、2014W杯での日本の惨敗を受けて、日本の選手の地位がガクッと下がったのである。


その後、日本人選手の能力は、ゲーム的に不自然なまでに低い水準のままだ、例えば吉田麻也の能力値はCA130台で、この能力値でセインツでずっと雇われていることはゲーム内では不可能である。実際、ゲームを進めると、能力値の低い日本人選手は数年すると欧州のトップリーグからいなくなってしまう。ことほどさように、FM内ではW杯の成績が絶対視されているのだ。


ことはゲームだけの問題ではない。少なくないリアルのクラブがこのゲームのデータをスカウトの参考にするゲームである。サッカー界におけるその影響力は計り知れない。


いまの日本代表がW杯で惨敗することで、いまの代表の選手だけでなく、日本人選手全体の評価が下がってしまうのである。これは、代表選手どころか、日本サッカー協会でさえも責任を取る取らないどころの話ではない。日本サッカーの未来が大きく代わってしまう、それがW杯なのだ。


いま、我々は、日本サッカーのかつてない地盤沈下を目撃しようとしている。そして、それはまだまだ始まったにすぎない。


ナ・ホンジン監督『チェイサー』2008年

韓国映画はミニシアター系の映画が多い。これもその系統で、連続殺人犯もの。ただし、普通のシリアルキラーものと違うのは、比較的冒頭で犯人が捕まることだ。犯人の家にはまだ息のある被害者がいるが、犯人は住所を言わないので突き止めることができないし、警察も本気で探さない。唯一、その被害者の女性(娼婦)の雇い主である元警官だけが彼女の居場所を探そうと必死になっている。

この、無能でやる気のない警官と、たった一人で事件を解決しようとする主人公という構図は、ハリウッド映画で何度も繰り返されてきたものではある。しかし、この韓国映画では、主人公は決してヒーローではない。裏社会の住人であり、むちゃくちゃ暴力的で、泥臭い。このへんは日本のマンガに似ている。

犯人はのらりくらりと追求をかわし、結局釈放されてしまう。普通は、この犯人が一番憎いと観客が思うようにこういう映画は作られる。しかし、韓国映画では真の悪役は警官であり、検事である。朝鮮では古来より、権力のある一部の人間(リャンパンなど)が民衆を奴隷扱いし、搾取してきた。そういう傾向はきっと今でも残っているのだろう。韓国映画において権力者は、必ずといっていいほど、威張り散らしているわりには無能というふうに描かれる。この映画でも同じだ。ここで出てくる警察署長や検事は、ときに犯罪者よりも醜悪で、邪悪に描かれる。よく注意して見てほしい。観客の怒りは犯罪者よりもむしろ無能な警官に、無能な権力者に向けられるように作られている。そして、そうした筋書きの映画が支持され、ゆえにそうした映画が作られつづけるのが韓国という国なのだ。

ところで、この話は実際の事件を題材にしているらしいが、そういう名目なだけで、ストーリーはすべてフィクションである。実際、ドラマとしてとてもよくできている。と言うより、できすぎているほどだ。無駄な部分がなく、お手本のように完成されている。しかも、監督はこれが劇場映画は処女作らしい。その事実にも、韓国映画の成熟が見て取れる。が、私はこの映画と『殺人の追憶』をどうしても比較してしまう。2003年(日本公開は2004)の殺人の追憶』は、不気味さとコメディがないまぜになったポン・ジュノの傑作だ。というより、今まで作られた韓国映画のなかで一番の映画である。殺人の追憶と比べると、『チェイサー』はただのよくできた映画に見えてしまう。いろんな映画を見れば見るほど、『殺人の追憶』が映画史的に見ても特異な、傑作というレベルを超えた存在として意識されてしまうのだ。


フランス映画『RAW〜少女のめざめ〜』感想

rawという英単語には、「生肉」とか「訓練されていない人」という意味がある。そんな言葉が原題のフランス映画。16歳の少女が主役の、ちょっとエロティックでちょっとホラーな映画だ。監督はジュリア・デュクルノーという女性。この作品が初長編だ。

この映画で特徴的なのは、皮膚に対して加えられる攻撃だ。主人公の少女ジュスティーは、学校の寮にやってきた初日から先輩の過激な歓迎、というか横暴な仕打ちを受ける。そのしごきは新学期の間ずっと繰り返されることになる。物語的に重要なのは、うさぎの肝臓を食べさせらるシーンである。彼女はそこで初めて肉の味を覚え、これがのちの展開の重要な布石となる。

だが、それよりずっと重要なのは、集合写真撮影の際に先輩たちから浴びせられる血が、ジュスティーヌの顔にかかったり、夜のパーティーで彼女に青のペンキをぶっかけられたりするシーンだ。これはある種の暴力だが、あくまで皮膚に対する暴力であって、受けたダメージも水で洗えば落ちるものだ。ところが彼女は、まるで何事もなかったのように顔に血を浴びたまま授業を受け続ける。そして、ペンキのシーンではペンキを顔にべったりつけたまま男とキスをする。

それはともかくとして、皮膚に加えられる暴力が繰り返し描かれることによって、この映画は、観客に対して触覚的な知覚を与えることに成功している。この映画は、スクリーンを通じて触覚的な暴力を観客に与えるわけだ。実に不思議なことに、こうした感覚を映画によって与えてくるのは、世界広しと言えども、セリーヌ・シアマなどフランスの女性監督だけだ。

この映画は普通のホラー映画のように、怖い仕掛けがあってびっくり怖いというのではなく、見ているこちらの脳内に直接肉体的なダメージがくる、そういうタイプの映画だ。このセンセーションは今までの映画にはないタイプのものだ。生誕100年が過ぎて、映画はついにこんな作品を生み出すようになったのか、そんな感慨を持たされる、それがRAWという映画だ。

アヴィーチーの名曲“Waiting For Love”を訳してみた

アヴィーチーの“Waiting For Love”は名曲なんだが、ネットで調べると適当な訳しかなかったので、ほぼ全部自分で訳し直してみた。文法的には中学で習う英語の知識が完璧であればほぼ全部訳せる。

というわけで御覧ください。

“Waiting For Love” Avicii

[Verse 1]
Where there’s a will, there’s a way, kinda beautiful
And every night has its day, so magical
And if there’s love in this life, there’s no obstacle
That can’t be defeated

[Verse 2]
For every tyrant a tear for the vulnerable
In every lost soul the bones of a miracle
For every dreamer a dream we’re unstoppable
With something to believe in

[Chorus]
Monday left me broken
Tuesday I was through with hoping
Wednesday my empty arms were open
Thursday waiting for love, waiting for love
Thank the stars it’s Friday
I’m burning like a fire gone wild on Saturday
Guess I won’t be coming to church on Sunday
I’ll be waiting for love, waiting for love
To come around

[Verse 2]
We are one of a kind irreplaceable
How did I get so blind and so cynical
If theres love in this life we’re unstoppable
No we can’t be defeated

意志あるところに道あり、それって何だか美しいだろ
すべての夜には対になる昼がある、なんて魔法だろう
もし愛が人生にあるのなら、何の障害もない
愛を打ち負かすことはできない

どんな暴君にも弱い者のための涙がある
すべての失われた魂には奇跡の骨がある
すべての夢追い人には誰にも止めることができない夢がある
信じるための何かと一緒の

[Chorus]
月曜日はオレをぶっ壊したままにして
火曜日にオレは希望と関係を切る
水曜日にオレの空っぽの腕は開かれ
木曜日には愛を待つ、愛を待つんだ
ああ星たちよ感謝します今日は金曜日
オレは炎のように燃えワイルドになる土曜日
日曜日にはオレはきっと教会には行かないと思う
オレは愛を待ち続けていることだろう、おとずれるべき愛を待ち続けているだろう

オレたちは代わりがきかない類の人間だ
どうしてこんなに盲目でひねくれてしまったんだろう
もしこの人生に愛があれば、オレたちはもう止まることはない
誰にも打ち負かされることがないんだ


歌詞の一言一言に無駄がなく、名曲だ。ヴォーカルのSimon Aldredの声も、ちゃんと歌ってるときのマイケル・スタイプR.E.M.)みたいな硬質な声で、曲の永遠性に貢献している。