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日本の思想2 自尊心

人間が人間として生きていくのに衣食住以外に何が必要か。それは、安心、誇り、連帯感の3つだ。これからも今までどおり生きていけるという安心感、自分に対する自負や自信、そして人とのつながり、これらが人が人として生きていくために最低限必要なことだ。それらが失われると、人は人として生きていけない。いや、このことは、ある程度高等な動物についてさえも言える。犬や猫や鳥も、やはり己への自尊心や生活の安心、そして同類との社会生活を必要としているのは、簡単な観察からも容易にわかる。

制度は、人の欲求を特定の仕方で満足させるための装置である。社会は、安心、誇り、連帯感への欲求を満たすためのさまざまな装置を用意している。というより、社会や制度と呼ばれるものは、この3つの欲求を満たすために存在している。日本社会も同じだ。すでに、安心への欲求について、日本社会がどう対応しているかは見た。では、次の欲求、誇りへの欲求について日本社会はどのような制度を持っているのだろうか。

日本人は世界で最も謙虚だ。すぐに人に頭を下げ、自分のことを低く言うのに抵抗がない。これは世界的には、極めて特殊な性質である。外国人には、日本人には誇りがないように見えることだろう。事実、アメリカなどでは子供への必要な教育としてまず自尊心があげられるくらいだが、日本人ではそうではない。しかしこのことは、日本人が自信を持たないということではない。では、日本人の自信の根拠はどこにあるのか。

一般的に、日本人は集団への帰属意識が極めて強い。ゆえに、日本人の自尊心は、帰属する集団によって左右される。日本では、自分に自信を持てと親に言われるのではなく、いい学校、いい会社に入れと教わる。これは、日本では、いい学校やいい会社に入ることそのことがすなわち、自尊心を持つことを意味するからだ。日本では、個人的かつ心理的な次元の問題が、社会的かつ客観的な問題として解決されるのである。

この傾向はしばしば極限まで行く。往々にして、日本人は自分主体ではなく、自分が属する集団を自分そのものとして考えるようになり、一人称単数ではなく、一人称複数で考えるようになる。自分が集団の一員なのではなく、集団が自分そのものとなる。自分のアイデンティティーとして、まず会社の名前を言う、というような行為は日本人に特徴的だ。さらにたとえば、日本人の既婚男性が失業した場合に、妻との離婚をも意識することがあるのは、彼のした結婚が、彼の就職している会社の名前によって成立したようなものだったからだ。日本人の妻の多くは仕事を持たず、彼女の自尊心は夫の務める会社に左右されるのだ。日本においては、人間関係は制度的な枠組みの上でのみ可能となる。つまり、人の社会的地位が、その人の持ちうる人間関係を可能にする。

さて、いったんある集団に属すると、日本人の自尊心はその中での地位によって左右されるようになる。よって多くの日本人にとって、会社とは単に仕事をしてお金をもらう場所というよりかは、そこで自分の価値が決定される場所となる。欧米では、属する会社よりもむしろ、そこで得ている仕事内容の違いによって社会的地位が決まるのに対し、日本では属する会社と役職によって決まる。海外の駐在先で知り合った日本人女性同士が、それぞれの夫の会社での役職に応じて相手女性への口の聞き方を変えることがある。これはやはり、一般的に言って、自分の仕事を持たない日本人の妻が、夫の会社での役職に応じて、その社会的地位や自尊心が左右されるからである。

欧米では、一般的に、自尊心は個人的な次元のものである。そして、誰もがある程度の自尊心を持っている。個人主義とはそういうことだ。欧米では、乞食でさえほとんどの日本人よりはるかに偉そうにしている。よく日本人がヨーロッパに旅行して馬鹿にされたように感じることがあるが、基本欧米人というのは自尊心の塊でそれを常に表に出しているので、バカにされたように感じてしまうだけだ。欧米ではごくごく普通な人の態度も、日本人には信じがたいほど偉そうに、礼儀を欠いているに見える。事実、欧米では誰もが日本人からすれば異常なほど自尊心を頻繁に表に出し、自分の知らないことや間違いを決して認めない。おそらく、欧米では自尊心を表に出していない人間というのは淘汰されるからだ。少なくとも、日本では、人との関係を自分の自尊心より大事にするので、人を傷つけないことを第一に考えるが、欧米ではそうではない。

ところで、日本人で集団に属さない個人はどのような自尊心を持っているのだろうか。一般的に言って、日本人は好奇心や探究心が強い。日本人の好奇心の強さについては、幕末に日本を訪れた西洋人の多くが特筆している。その上、日本人はじつは向上心が強い。よって、集団に属さない日本人は、しばしば、自分の道を極めることにおいて、自尊心を満足させる道を見出す。日本一流のパティシエ、陶工、野球選手、棋士、剣士、舞踏家などは、ただそれがうまい人というより、ある種の求道者のような精神を持っている。それは、日本では、自分が好きなことをとことん極めることと、自分自身の価値を高めることが同じ意味を持つからだ。これは欧米人にはあまり見られない。そもそも、とことん極める人というのがごく少ない。これは彼らが、単に自分そのものになぜかすでに自信を持っていて、ほかのものを必要としないからだと思われる。

日本人はゆえに、属する集団の違いやその中での地位によって、人との関係において相対的に自尊心を持つか、それか自分の極める道における達成度において自尊心を得る。結果、日本人は自分と他人を比較するのが大好きであるし、人を評価するにもなんらかの外的な基準をまず参考にする。これは、社会システム上もそうだ。たとえば、偏差値によって、無数の大学とそこに属する学生や教師が一律に社会的に評価される。また、結果として日本人の多くは上昇志向が強い。これも世界的に普遍的なことではない。たとえばヨーロッパでは、そもそも「上」がないので、上昇志向もない。なので、ヨーロッパでは、元植民地出身の人間のほうが上昇志向が強い。

日本人が概して極めて勤勉であるのも、自尊心への欲求から説明される。これまで述べてきたように、日本人は集団における地位によって自尊心が左右される。会社でよく働き、成果を出せば同僚から認められる。これが多くの日本人の自尊心の根拠なのだ。『エンゼルバンク-ドラゴン桜外伝-』で強調されていたように、日本の会社は成果主義だ。これは、日本人の自尊心そのものも成果主義だということだ。ぼくの見てきたところ、契約上の時間を仕事場ですごせばそれでお金をもらえると考えているような日本人は一人もいなかった。

これに対して、欧米人は勤勉ではない。というより、勤勉ということの意味を彼らは知らない。とくにフランスでは、ぼくの見てきたところ、ど素人の、その仕事について何も見ても聞いてもこなかったような人がそこで今日たまたま働いているような印象を受ける。つまり、フランス人の多くは、見よう見まねで働くことがぎりぎりできるレベルである。これは彼らが同じ職場で二十年働いていても変わらない。一般的に、欧米人は自分の仕事に注ぐ心的エネルギーが極度に低い。これは彼らの自尊心が、自分の仕事の成果によって全く左右されないからだ。

ゆえに、日本では自尊心の追求と満足が、社会制度の中に組み込まれ、そこで達成できるようになっている。日本においては、個人の自尊心が、文化的な装置のなかにある客観的な仕方で書き込まれるわけだ。個人的な心理上の問題が、制度的に決定されるのである。これに対し欧米というか特にヨーロッパでは、個人の自尊心は文化的な装置のなかに回収されない。自尊心はあくまで個人的なものであるからだ。この基本的かつ根本的な違いが、それぞれの社会において、人の行動や制度に関して、じつに多様な違いを生み出している。