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ブロマガから移ってきました

日本の思想3 人とのつながり

動物の社会は、種によって地域差がない。ある昆虫の社会が進化することは知られているが、一時代に存在するその種の社会のあり方は1つだけだ。シロアリは日本でも南米でも同じ社会を持つ。ところが、人間の社会は時代によっても地域によっても大きな差がある。その差は、安心、自尊心、連帯感の追求の仕方が地域によってそれぞれ異なることからくる。すでに日本における安心自尊心の欲求の社会的処理の仕方については述べたので、最後に連帯感、人とのつながりへの欲求について論じたい。

安心や誇りへの欲求と比べると、人とのつながりの欲求は、比較的弱い欲求のように思えるかもしれない。実際、日本では「ニート」と呼ばれる人が社会的つながりを断った生活を送っている、などとよく報道される。証明はしないがこれは正しくない。人が人としているためには、人とつながっているという欲求を満たす必要が絶対にある。これが満たされないと、往々にして人は犯罪者となる。テレビを騒がすような異常性犯罪者や、銃乱射事件の犯人などは、人とのつながりを十分にもてていなかった人物が多い。刑務所で人とのつながりが生まれると、受刑者の再犯罪率が減少することもわかっている。
例↓
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52115664.html

日本での人とのつながりの欲求に関する特徴は、日本人は集団とつながっていることを特に欲することにある。学校や職場における集団に属することで、日本人は連帯への欲求を満たす傾向にある。この集団はしばしばリーダーを持ち、各人の役割や階級が暗黙のうちに形成される。ある組織に属する日本人は、ほぼ何らかのグループに所属することになる。

結果として、日本にはゲゼルシャフトがなく、ゲマインシャフトしかない。そもそも、この、ゲゼルシャフトゲマインシャフトという区別は、近代欧米社会においてのみ意義があるものだろう。欧米における会社は基本ゲゼルシャフトだが、日本における多くの会社はゲマインシャフトの集合体である。そして、日本においては、一般社会自体もまた、さまざまなゲマインシャフト的集団の集合体として存在する。尤も、日本におけるゲマインシャフトは、中国や欧米におけるような地縁・血縁の共同体ではなく、同じ大学や会社に所属するメンバーからなる。

各人がそれぞれの役割や地位をもつ日本的集団は閉鎖的である。欧米人が日本に来て、友達の友だちが来る集まりに行こうとして、「ごめん今日は内輪の集まりだから」と断られて理不尽な思いをする、ということがよくある。欧米人には「内輪」という概念が理解できない。日本人は、たとえ複数の集団に属していようが、それぞれの集団はまったく別の構成員からなる場合が多く、たとえ自分の友だちであっても、別の集団に属するメンバーを紹介したりしない。たとえば、同じパーティーに大学の同級生と会社の同僚の両方を呼ぶ、ということがない。日本人の人間関係においては、「友人」よりも、「メンバー」のほうが優勢で、頻繁に使われる概念である。

前回、日本人は自分がいる会社や学校の格やそこでの地位によって自尊心が左右される、と述べた。これに加えて、日本人にとって会社内の集団での人間関係は、そこで人とのつながりへの欲求が満たされる場所でもあるわけだ。それゆえ日本人は頻繁に、会社が終わった後にはすぐに家に帰るのではなく、同僚と飲みに行く、などの行動をとる。日本人がある集団の一員に真になるとき、それは、1.そこに自分の誇りをかけ、2.そこで連帯への欲求を満たすことを期待するようになり、3.その二つのことを周囲が認識する、そのときである。この構造は、ヤクザや大学のサークル、学校の不良グループに至るまで変わらない。一般的に、日本における集団は、この3つのステップを踏んだ構成員によって成り立っている。この3つのどれかが欠けると、日本人はその集団に属せなくなる。

今や、日本人における会社の圧倒的な重要性を完全に理解できるだろう。日本人にとって職場とは、安心、誇り、連帯感の3つの人間の欲求が満たされる場所なのである。そこは、人生のすべてが得られる完全で絶対的かつ神聖な場所だ。阪神大震災のとき、被害にあった家庭をもちながら、地震後すぐに会社が東京で開いたセミナーに行って帰らなかったという男性がいる。
http://www.k-moto.net/book32/archives/2005/07/post_330.html

これは、この男性にとって、家族における人間関係よりも会社における人間関係のほうが重要であったことを意味するだろう。もちろんすべての男性がそうなわけはないだろうが、家族とあまり一緒に過ごさない夫、というのは日本ではとても一般的なイメージである。欧米人女性と日本人男性が結婚したあとに問題になるのも、日本人男性の仕事と家庭に対する比重の置き方の極端さだ。

アメリカの映画やドラマで、よく母親や父親が自分の子供に対して、「あなたは私の誇りよ」というシーンがある。これは日本ではまず見られない光景だ。一般的に言って、日本において家庭とは、そこで自分の誇りがかけられている場所ではないからだ。

日本では、家族関係の希薄さなんかがよく取り沙汰される。これは欧米と根本的に違うところだ。アメリカなんかでは未だにお父さん絶対の世界である。思うに、日本では、家族間の人間関係を成り立たせる文化的コードがない。ゆえに、それを可能にするのは、個人の独創的な努力のみである。