ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

身体性と女性性

最近は、日本でも女性が女性であることについて話したり書いたりすることが増えてきたのか、立て続けに面白い記事をいくつか読んだ。

白波多カミンが語る、女子の悔しさ「男子に対して劣等感がある」

白波多カミンは曲作って歌っている人。女の子。



うわあ、レディヘっぽい。まあそれはいいとして、上のインタビュー読むと、
……女の子って、結局常に見られる側で、選ばれる生き物なんですよね。男性が選んでくれないと子孫が残せない。それはただ単に体の形や機能の違いなんですけど、それによってコミュニケーションの形も決まってきている気がするんですよ。女の子はいくらどうしたって最終的には待ってるしかない。そこにもどしかしさがあるし、悔しい。
とある。これ、うんうんと頷く人もいるだろうし、んなアホな、と絶叫する人もいると思う。

ワタクシが思うに、すべての女の子は二種類にわけられる白波多カミンさんのように、声をかけられるのを待つことしかできないタイプと、自分から告白できるタイプ。前者と後者のあいだには、男と女の差以上の差がある。なぜか。

前者の女の子の極端なタイプには、「告白なんて絶対しない。自分から告白して好きな人と付き合えることになっても嬉しくないのでしない」というのがある。このタイプは、選ばれる側にいて、選ばれること、そのことに自らの女性性を確認し、満足し、喜びを感じるタイプである。このタイプは要するに、アプローチされることにおいてのみ認められる類の女性性というものに自分のアイデンティティを置いているわけだ。

後者のタイプ、これはすでに女性としてある意味極端なタイプなのだが、このタイプは好きな人ができたらまっすぐに向かっていくタイプである。このタイプは、自分で自分の感情を人に発信することができるし、自分のアイデンティティを狭い意味での女性性に閉じ込めていない。

とはいえ、白波多カミンさんは、どー考えても前者の極端なタイプであるとは思えないんだけど、それはまあ置いておく。じつはこの人のことを、私は文月悠光という女性詩人を介して知った。文月さんは詩だけでなく、エッセイも書いていて、それが結構面白い。

たとえば、
「かわいい」は疑え!
これ。あ、ここに白波多カミンの話もでてくるね。

この記事では、自分が「かわいさ」を好きで追求していたのに、かわいくなったのが原因で男の子にアプローチされだすと「これじゃない」と思った、という話がある。

この話すごい面白い。男であってもそういう感情はすごく理解できると思う。そして、この記事全部読むとさらに面白い。というのもそこで文月さんは「かわいい」がゆえに許されている自分のいろんなことととか、逆に自分の言動がかわいくないなあと思うこととかについて話していて、自分の「かわいさ」に対して両義的な思いを抱き続けていることがわかるからだ。女性の中でも、自分の性に自覚的な人はそういう思いを持ち続けているのだなあ、と思った。

そこで、上で言ったことに戻ろう。前者の女のタイプ、待ち続けるタイプ、これは自分で努力して維持している「かわいい」自分、それにとんでもない誇りと自信を持っていて、それを認められることでアイデンティティが満たされるわけだ。このタイプは、自分の「かわいい」女性性と自分自身が完全に一致している、と考えていいと思う。

さて、ここで、次の記事も読んで欲しい。
セックスすれば詩が書けるのか問題
これはツイッターでけっこう流れていて、話題になった記事だ。

ここで特に面白いと思ったのは、筆者が「男性には身体性がないのか!」と気づくところ。まあ、すべての男性が自分の身体性を意識していないとは思わないが、というか、違うが、確かに女性のそれとは比べ物にならない。

どういうことかと言うと、女性はごく小さいころから自分の身体性を意識させられる。女性性=女性の身体性である。逆に男は、自分の性を意識させられることも、自分の身体を意識させられることもない。

ふーん、そうかなあと思うかもしれん。でもこれ、男女集めて自由に小説書かせるとすごいわかりやすく出る。女性は自分の体だのセックスだのについてよく書くのに対して、男はほとんどそういうことについて書かない。男の人は、自分が小説書くとして、主人公の体についてなんか書くとか想像できないでしょ? 実際、男が自分の体について書いているのってカフカの『変身』とかロートレアモンの詩くらいしか思い浮かばない。どっちも変身系。逆に女性の小説には、(変身しない)自分の体について書いてたり、人の体の匂いなんだのについてよく書いている。まあそれはいい。

とにかく、女性は自分の身体について小さいころから意識させられ、自分が女性であるということを強烈に意識しながら生きている。一番初めに女性を待つ一択タイプかそうでないかの二つのタイプにわけたが、これはあまりよくないかもしれない。もっといい分類法は、自分の女性性と自分が一致しているタイプと、自分の女性性と自分が一致しているとは限らないタイプに分けることかもしれない。これなら、白波多カミンさんと文月悠光さんは後者に入る。

さて、私はここで、じつは男性も二つのタイプにわけられる、と言いたい。男性には、自分の身体性=男性性を意識していないタイプと、意識していて、微妙に自分の男性性と自分が一致していないかもしれないタイプにわけられる。女性の場合はすべての女性が自らの身体性を意識しているのに対して、男性の場合はそうではないのでこういう分類になる。男性の場合は、自分の身体性=男性性を意識していないタイプが自分の男性性と自分が乖離なく一致しているタイプになる。逆に意識しているタイプは、そこに少し違和感を感じるタイプであるかもしれない。

しかし、彼女が書くものを読む限り、文月悠光さんの周囲にはあまりいい男がいないのかあ、と余計な心配をしてしまう。と同時に、彼女の記事に出てくる、初対面で「最近セックスしてる?」などと聞いてしまう男の気持ちもイタイほどよく分かる。

最後にどうでもいいことだが、文月さんのように知性もあって、わかりやすいけれどはっとさせられる文章を書ける女性は、知的なバリバリ系女性タイプで攻めてほしい。背が高くなくても、スーツ着てなくても、ロングヘアでも、メガネさえかければそれっぽくなる。ただ、男が一番声かけづらいのはきっとそういうタイプではあるんだが…