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『君の名は』は記憶の共有についての話だ

そもそも私は、人の記憶が電話の混線みたいにほかの人のとつながるっていうタイプの話がすごい好きだ。なので、私の好きな映画のリストの上位には、キェシロフスキの『二人のベロニカ』とか、ホウ・シャオシェンの『好男好女』とかが来るのである。『二人のベロニカ』は、同じ名前、容姿、才能を持つベロニカという女性が、片方は死に、片方は生き残るという話で、生き残ったほうがもう片方の存在に気づくという話。『好男好女』は現代に生きる台湾の女性が、50年前の難しい時代に聞いていた女性の役を演じるうちに、その過去の女性と自分を重ね合わせていくというお話。どちらも、他人の記憶が自分のに交じる、という少し変なお話だ。確かに、どちらもあまりわかりやすい話ではなく、あまり一般受けしない映画ではある。でも、私は話がわかりやすいかどうかとかはどうでもよく、自分の心にビビッとくるとことがあるかないかで判断するタイプなので、気にならない。

というわけなので、私は、新海誠監督のアニメ『君の名は』を、記憶に関する物語であると見て、ビビッと来た。この映画でとくに興味深いのは、大林宣彦監督の『転校生』以来の、若い男女の入れ替わりというすごいありがちな設定が、恋愛の過程の一部を導入するためだけに使われているのだけではなくて、入れ替わりによって互いの記憶を共有するという意味を持たせていることだ。

互いの記憶を共有する過程、これは二度映画の中で描かれている。一度目は、互いが入れ替わっていることに気がついて、メモなどを残しながらなんとか互いに入れ替わった事態に対応しようとしている期間、この、音楽が全面にでていてセリフなしで流れるシーンで初めて描かれている。そして二度目に描かれるのは、立花瀧がご神体の地で噛み酒を飲み、宮水三葉の記憶を共有する場面。ここで、今度は三ツ葉のこれまでの人生の記憶を瀧が共有する場面が描かれる。この二つの場面が、この映画で最も重要なシーンである。というのも、この映画は入れ替わりによって恋に落ちた男女の話なのではなくて、互いに記憶を交換した男女が、そのことによって互いが互いの半身となるという話だからだ。さらに言えば、二回目の共有のシーンでの、瀧が「三葉の半分」である噛み酒を飲むこと、そしてそのことによって三葉の記憶を共有すること、その展開に、この話のテーマが象徴的に集約されているのである。

であるので、以下のツイッターのコメ(これ自体はすごく面白いが)にあるような、「二人が恋に落ちるまでの過程がどうたら」という意見はこの物語にとって何ら本質的ではない。



というのも、普通の人が学生時代にするような「ちゃんとした恋愛」と、この話に出てくる瀧と三葉の恋愛とはまったく別物なのであるからだ。瀧と三葉はいわゆる普通の恋愛をしているのではなくて、記憶を交換することによって相手が自分の一部となることによって、互いがかけがえないのない存在になる、という極めて特殊な形で恋愛をしているのである。

とはいえ、私は、このアニメで描かれているような恋愛が、アニメの外に住んでいる生身の人間には不可能だと言っているのではない。こういう恋愛は三次元の人間にも可能である。だが、それはいま問題になっている話題ではない。

さて、人間が唯一真に所有するもの、それは記憶である。それ以外のもの、たとえば、お金、仕事、容姿、人間関係、物などは一時的に所有することができるものであるに過ぎない。現在は過ぎ去るが、過去は過ぎ去らず、つねにある。そして、つねにそこにある記憶こそが、ある人間をあるひとつの人格として保つものでもある。と言うと、記憶なんてものこそ一時的なもので、どんどん忘れていくじゃないか、という反論もあるだろう。実際、この反論どおりに、映画でも瀧と三葉は記憶は、終盤にかけてどんどん失われていき、それが物語を異様に切ないものにしている。だがそれでも、二人の記憶は完全に失われない、というのもこの話の大きなポイントである。これがこの映画の深さであり、ほかのいろいろなギミックがいかに表層的なものであろうとも、私がこの映画を絶対的に支持する理由でもある。

瀧が、三ツ葉になっていた間に見ていた糸守の景色をかすかに覚えていたというところもいい。結局、記憶というのはその人の一部なのである。互いの一部、あるいは全部を一度共有したことのある相手、瀧にとっての三ツ葉が、かげないのない相手になる、これは当然のことである。だが、その記憶、つまり自分の一部をなくすことによって、瀧には余計にその記憶に執着するべき理由が生まれるわけだ。この部分、最後の、相手の記憶をなくす、という部分が『秒速5センチメートル』とは違う部分であり、そこがこの映画の終盤のドラマツルギーを作っている。終盤のドラマツルギーが『5センチメートル』とは違うのだから、当然展開も違うものとなる。

細かな記憶は失われるが、そこに結びついた感情は失われない。これは人間の真実である。このことについて論証するのは哲学や心理学の分野の話になるので、ここでは省略せざるをえないが、ある程度、たとえば二十年ほど生きてきた人間には、このことは真実だとわかるのではないだろうか。記憶に一番強く残るのは感情であるということ。そのことがこの映画の終盤にかけて描かれている。瀧と三葉、とくに中心に描写される瀧は、過去の記憶をなくした後でも、そしてそのなくしたことということそのことさえも忘れてしまった後でも、三葉にまつわる感情と、三葉を探さないといけない、忘れてはいけないという正体不明の感情だけが残る。

そんな薄い、あやふやな感情が人間を動かすような強烈な動機になるはずがない、と思う人もいるかもしれない。そういう人に対しては、大事な感情をいくつか体験してほしい、そして、歳を重ねてみてほしい、としか言えない。人間は、忘れる生き物である。だが同時に、感情だけは覚えている生き物である。その感情の原因となった記憶がいくらかあやふやになっても、それでもその原因となった人や出来事を大事に思い続ける、そういう生き物なのである。

確かに、いま現在抱いている感情、それが人間にとっては一番強烈なものであり、人を動かす最大の要因となるものである。それに比べると、記憶というのはかつて抱いていた感情の残像であり、薄められたものである。そのような薄い、弱められたもの、だがそれがいま現在の感情よりも大きな力を持って瀧と三葉に作用している、そのことにこの物語の終盤のキモがあるわけだ。一時的にであれ記憶を共有し、互いが互いの半身となった存在、その相手と、相手が住んでいたところ、それらの記憶が、東京の、すごく多忙でほかのなにもかもをどうでもいいと思わせてしまう生活の中で、現在の感情を圧倒して二人に迫ってくる、そこまで描いたのがこの物語なのである。

そのことによって、『君の名は』は、類まれな、記憶についての映画として、私の中では、キェシロフスキの『二人のベロニカ』やホウ・シャオシェンの『好男好女』に並ぶ作品となった。

ところで、上のツイッターの「恋愛過程が云々」って話だけど、これがもしTVアニメ化とかされたら、二人が入れ替わった日常だけで1クール分くらいとれるよね。でも、そこでもし二人が「これこれこういうきっかけで二人は恋に落ちた」みたいな描写があったらそれこそぶち壊しだと思う。そこを描いていないのが、この物語にとって本質的なリアリティなのだから。