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人間の境界 相模原市障害者施設虐殺事件について

相模原市障害者施設で起きた大量虐殺事件が話題を集めている。これは戦後最悪の虐殺事件の一つなのは間違いない。が、「世間を騒がせている」と言っても、健常者側の人間にとっては、対岸の家事でしかないのも事実だ。同じ日本で起きた事件であるのに、大半の人間が、まるでトルコで起きたテロ事件のように平然としていられるというのが今回の事件の特徴だ。

もちろん、健常者は「障害者は殺されて当然」と思っているわけではない。そうではなくて、大半の健常者は「これは障害者の世界で起きた事件でこちら側の事件ではない」と無意識のうちに区別してしまっているということだ。これはある意味仕方がない。とくに重度の障害者は施設などに隔離されている現代の社会では、健常者と障害者の世界が物理的に別れているのは確かだ。

さて、今回の事件について、こんな意見があった。
犯人の動機の根底にある『障害者は人間ではない』というメッセージは、実は障害のない人たちの心の奥底に眠っている感情なのかもしれません。障害があってもなくても人間なんだということを、もっと考えてほしいと思っています
これ、このことが私は今回の事件の根底にあると思う。

今回の事件は、当の施設で過去に働いていた職員が起こした事件である。そして、犯人は人づき合いもあり、愛想もよかったという証言がある。普通なら、なぜそんな人がこんな犯罪を起こすのだろうと思うところだが、この事件に関しては、引きこもりでニートでブサイクな人間よりも、人づきあいがよく、リア充な人間の方が比較的こういう犯罪を起こしそうな気はする。健常であればあるほど、障害者に対する眼差しというのは厳しくなりえるものではないだろうか。

なぜかというと、人づきのよい人間ほど、人間に求めることが多いからだ。人間という生き物は、ただ人間として生まれるだけでは人間として認められない。人間は人間社会の中に生まれるので、社会に人間として認められるためのさまざまな振る舞いや能力を身につけなければならない。その中で最低限のことに、「会話できること」がある。会話ができない人間は社会の中において文字通り人間として扱われない。このことについて、わざわざ証拠を提示する必要はないはずだ。

学校で必ずいじめられるのはまともに会話できない人間である。社会から叩かれるのはリアルで会話できないニートである。就職することができないのは面接でまともに受け答えできない人間である。社会は、会話できない人間を社会に受け入れない。つまり、人間として認めない。そもそも、人間は会話できない人間を人間として受け入れない。これは、私たち一人ひとり人間の奥深いところにある思想であるので、それが社会のあり方にも反映されているというわけだ。話しかけて、応答があること、それが人間がほかの生き物を人間として認めるサインとなっているわけだ。これは健常な人間のうちにプログラムされているといっても過言ではない。

重度の障害者の中には、人間として認められるためのサインを発せない者もいる。今回の犯人、植松聖はそうした重度の障害者をとくに殺害したという報告もある。そして、現場にいた職員は事前に彼が拘束しておいたとかで、当初の殺害の対象にはしていない。これは、彼が、彼が人間として認めるかどうかで相手に与える被害の大小を変えていたということを意味する。ちなみに、軽度の知的障害者なら、コミュニケーションは普通に取れることが多い。

三歳の子どもなら、重度の障害者を目の前にしても同じ人間だと思うだろう。しかし、多くの人は、歳を取るごとに、自分が「正常」と認める範囲が狭まっていき、重度の障害者を「異常」だと判断するようになる。もちろんだからと言って、ほとんどの人は障害者を虐殺しようとは思わない。だが、犯罪を起こした犯人の思いは、私たちが普段、会話のできない人間を一段劣った人間とみなすような気持ちのそれと、同一線状にあるのではないだろうか。