ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

学校はバカを作る

近代とはどのようなものか。近代とは、村の次男や三男たちが農村を離れて都市に移り住み、その子どもたち、つまり生まれつきの職をもたない者が都市に溢れだした時に始まる。彼らを受け入れる職はあったが、教育制度はなかった。そこで、学校制度が生まれた。このとき、教育の目的は工場労働者を作ること、これしかなかった。教える内容は読み書きと簡単な計算だが、それ以上に大事だったのは時間を守ること、集団で行動することを教えることにあった。

近代初期においては、先に職業があったのであって、先に学校があったのではない。ゆえに、学校の目的は、すでにある職場に人間を労働者に改造して送り込むことにあった。。もともと無奔放で落ち着きのない子どもたちに一日中座ってじっとしていることを教える、それが学校の主な教育内容だった。現在では職の種類が多様化し、労働者を製造するだけでは不十分になってきているが、それでも学校のもともとの性質というのは変わらない。

だが、学校の最大の問題はそこにはない。近代的な学校制度の欠点とは、学校がバカを作り出すことにある。学校は考えることを教えない。教師からして考えることなど習ってこなかったのだから、思考することなど教えられるわけがない。それどころか、学校は子どもが自主的に思考するモチベーションを奪ってしまう。なぜか。そして、どういうことか。

近代以前は、人と職というのは一生のものだった。というより、家と職業が不可分のものだった。たとえば、農家なら農家を営むことが生きていく手段であって権利であり、その職を引き継いでいくことが人生の目的だった。その場合、家自体が職の場なのだから、職に関するすべての教育は家で行われる。もちろん、職についてだけではなく、生きる知恵すべてがそこでは教えられる。子どもも、自分が教わることが生活に直結しているので、教わる内容の意味もわかっている。日本の場合、読み書きを習う学校が別にあることもあったが、これは世界的に見て例外。

とにかく、近代以前は、教育とは親たちがするものだった。子どもの親だけでなく、共同体全体で子どもを育てた。これはどういうことかというと、親たちが自分の職を通じて生きていく知恵と知識を持ち合わせていて、それを子どもに教えることができていた、ということだ。今では、ある子どもの教育を大人たち全員がするという感覚は失われているが。それもそのはず、大人たちが子どもに教えられることがないからだ。なぜか。

それは、近代的な都市生活では、人が働く内容になんの知恵も必要なくなったからだ。工場で働くような場合、仕事内容で人間形成されるということは絶対にない。ゆえに、大人が子どもに伝えられる知恵というのもなくなった。それゆえ、学校というものが登場したわけだ。学校の登場のあと、大人は子どもに教えることをやめた。教育のすべてを大人は放棄し、その結果、料理でさえも料理教室で習わないといけなくなった。大人は子どもに教える義務から開放された代わりに、矮小になり、空洞になり、威厳と高貴さを失った。

ところが、その当の学校では、すでに発見された知識を子どもに教えるだけで、その知識になんの意味があるのか、というようなことまでは教えない。数学なんかいい例だ。微分の意味を教わった人がどれだけいるだろうか? これでは、子どもは教わる内容に興味がわかない。学問や科学の世界は退屈なもので、意味のない知識がそこそこに整理されて並べられているものだと思ってしまう。それか、最悪なことに、与えられた問題をその意味を考えようとしないまままるでコンピューターのようにただ解くことに快感を感じる人間を量産してしまう。大学でさえそういう傾向がある。

別に日本の教育制度は間違っているとか、学校にいい教師がいないとか、そういうことをいいたいわけではない。そうではなくて、公的な教育制度そのものに、根本的な欠陥があるということを言いたいのだ。これは、フーコーなんかも言っているが、そのことの意味をちゃんと受け取っている人を見たことがない。教育の内容をどうこうすればいいというわけではなくて、制度そのものがただの権威の場となって、人から自主性と創造性を奪うのだ。

学校で教える教師を攻めるのは間違っている。というのも、彼らもお仕着せの教育制度で育ったにすぎないのであって、自分が教えている科目の意味を体感したことなどないからだ。だが実際は、学校で教える教育内容、たとえば科学や数学なんかはその一つ一つの項目の発見に大きな意味があり、今でも実生活において意味を持ち続けているものばかりだ。

理論的にも実際にも学校は思考する人間を作れない。作れるわけがない。いや、ワタシは学校で義務教育受けてちゃんとものを考えれるようになったという人がいれば、それはまあ、よほどいい学校に行ったか、「考えること」と「思うこと」を混同しているかどっちかだ。たとえば、安保法案のニュースを見て、「ワタシは戦争嫌だからこの法案に反対」とかいうのは「思っている」だけであって、「考えている」のではない。

考えるというのは、自分で与えられた事実や現象すべてを精査して、問題になる事象の意味を把握するということだ。それは、すでにある問題をとく能力ではなくて、自分で問題を発見する能力のことだ。その意味で言うと、この世の90パーの人は思考することができない。思考するなんてことは口で言って教えられるものではなくて、自分で体感するしかないもので、制度的に教えることができない。子どものうちに思考することを学ばない人間は、一生思考することを覚えない。というか、「思考する」ということの意味が一生わからない。

こう書くと、「欧米の教育は日本の教育より、考えることに重きを置いているので、教育制度そのものが悪というのは間違っている」と、いう人もいるかもしれない。でも、ほんとに、欧米の人たちが教育の結果、みんなが自分で考える力を持っている、そんなことがありうると思うかい? 欧米の大都市に行って地下鉄に乗って人を見るだけでそんな意見間違っているのが分かる。パラダイスはこの地球にはない。それどころか、近代教育というのはヨーロッパ発祥であって、いまワタシが書いている教育制度批判もヨーロッパ人が真っ先に展開している。まあ、欧米の教育の実体が気になる人は各自で調べてくれ。あ、大学は欧米のほうが活発に議論してていいと思う。

「でも、日本でもいい大学に行っているような人は、学校制度で教わってきたとはいえ、考えることができるんじゃない?」と思う人もいるかもしれない。が、残念ながらそうではない。いい大学に通うような子は確かに頭はいいかもしれないが、それは知識があって情報の処理能力が高いというだけで、これは思考能力の前提ではあるが、それが直ちに能力があるということを保証しはしない。むしろいい大学に行っているような学生には、というか学者レベルにおいてさえも、すでにある問題をただ解くことや解説することだけが得意で、ほかは何もできない人間が多い。

それは、コンピューターがいくら賢くなっても考えることができないのと同じだ。コンピューターは与えられたデータをもとに演算をすることできる。無数にあるビッグデータからなにが有意義なデータか見出すこともできるかもしれない。つまり、人間がいましている知的労働のほぼすべてのかわりをすることができる。が、それは考えること、つまり、すでに言ったように、問題を発見することではない。

コンピューターを持ち出すと、考えることがなんなのか説明することが難しくなると思うかもしれない。コンピューターだって囲碁も普通の人間よりうまいし、頭いいでしょ、と思うかもしれない。確かにそうだ。でもわかりやすく言うと、コンピューターをどう使うかということ、それこそ考える能力が必要であって、コンピューター自身はそれについて何も教えてくれない。コンピューターにゲームを描写させてそれを遊ぶなんてことをコンピューターが思いつくだろうか? んなわけない。が、そのうち、コンピューターに人間がする仕事のすべてを教えることが完了するだろう。そのあと、人間は思考することを忘れるだろう。100年いや50年後、教育制度とコンピューターのせいで、考える人間というのはほぼ絶滅していることだろうが、これはまた別の話、近未来の話題の時にまた話してみたい。