ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

人間にとっての愛の意味

人間とは愛がないと生きていられない生き物だ。これは、愛がこの世で最高のものだとか、愛そこすべて、みたいな歌のセリフと同じことを言わんとしているのではない。そうではなく、文字通り、愛が人間にとっては生と死の問題であるということだ。

人間にとって、食や睡眠などと同じく、生き死にに関わること、それが愛である。それゆえ、睡眠や食と同じく、愛はポジティブなものにもなるし、ネガティブなものにもなる。だがまあ、それら2つと比べて、過剰な愛というのはさほど問題にならない。問題になるのは異常な愛であり、愛があってありあまって困るということはない。その点、愛は金と同じようなもの、と言ってもいい。

人を愛するということは、その人を愛おしいと思い、その人の存在をつねに気にかけるということだ。愛するだけでその人を生き生きさせることができるし、その人がその人自身を大事にさせることができる。逆に、愛されない人はその逆になる。何度もいうが、人間にとって愛とは生き死にの問題であり、愛されない者は死んでいくのである。実際に。

人が自殺するときや自暴自棄になるときは、たいてい愛されていないからだ。もちろん金の問題もあるかもしれないが、もし社会が弱者に優しい世界であれば、金の問題で自殺する人間などいないはずだ。これも要するに愛の問題だ。まあそれ以外に戦争や第三世界の貧困なんかも本当は愛の欠如の問題なんだけど、そこまで話を広げる気はない。身近な人間の愛、これほど人間にとって大切なものはない。ここでいいたいのはそれだけだ。

リスカしたり援交したりする少女のほぼすべては、親の愛を受けずに育っている。自分を大事にするという意識、これは愛を受けないと決して育たない。他人を大事にするという意識も同じように、人から愛を受けないと決して育たない。いじめをする人間はまず100パー親から愛されていない。もちろん、もっとひどい例もある。これについて興味がある人はマイケル・ギルモアの『心臓を貫かれて』を読んで欲しい。これは、愛を受けずに育った人間がどこまで悪の権化になれるか、ということについてのノンフィクションになっている。

人を愛することができるのは人から愛された人だけだ。このことはつまり、愛は人から人へと直接的にのみ受け継がれる文化や財産のようなものだ、ということだ。これは能力なのである。ゆえに、親から愛された人は幸福であり、その人は人を愛することができる。そうでない人は誰かから愛し愛されることを教わらないと人を本当に愛すことはできない。愛なんてものはいくら口で言っても教えられるものではないからだ。単にある人が好きということは、その人を愛することではない。これもまあ言わずもがなだろう。

さて、では、なぜ人にとって愛がそれほど決定的なものかと言うと、それは、人は基本誰からもそれほど愛されないものだからである。というより、基本的に人は人に対して攻撃的であるか、無関心であるかだからだ。いや、そんなはずあるか、おれは誰からも友好的に接せられている、というあなた、それはあなたが金を持っているからである。金のやり取りがあるおかげで人は人に友好的でいられるが、それは愛があるというわけではない。また、若くて見栄えのいい異性に対しても人は友好的になるが、それもまた愛があるというわけではない。基本、人は人に対して無関心であるか、攻撃的であって、人と人の関係において、愛なんてものはまずない。そのため、人は社会において安心して生きていくために愛を求める。いや「社会で」というのは余計だった。人は単に生きていくために愛を必要とすると言っていい。それは人が無力で定命でつねに他人の無関心と攻撃にさらされているからだ。

もちろん、愛は二人いないと成り立たないし、一方通行でも成り立たない。それについてはわざわざ言う必要がない。人を愛するというのは、単にその人に興味があるとか好きとかではなくて、その人の存在に自分が左右されるということなのだから、その人にずっと関心を注いでいる、ということになる。愛は愛を維持する能力になる。じつはこれが愛にとって真に重要な能力である。たとえば、家族をずっと愛することができていないと幸せな家庭を維持することは絶対にできない。世の不幸のほとんどは愛の維持についての無知と無自覚から生まれるといっても過言ではない。妻や夫の浮気、子どもの非行や犯罪などは家族における愛、つまり関心の欠如から生じる。

異常な愛もある。ストーカーになる人間は、過去の愛や妄想の愛に異様に執着しているわけだが、なぜだろうか。それは、その歪んだ愛なくしてその人が存在できなくなるからだ。それは、単に異様な行動をするという程度の問題ではなくて、その人の生き死の問題なのである。愛は人に欠かせないものであるので、人を狂わせることも多い。当たり前だが。

英語で「I love you」という言葉、あれは日本語に翻訳できないと常々思っている。このセリフはじつは「ワタシにとってあなたとの関係はワタシの生き死ににかかわるものであって、あなたとの愛なしではワタシはもう生きられないし、生きようとも思わない。そして、あなた自身もまたそうである」、そういうヘビーな告白である。それゆえ、まともな人はよほどのことがない限りこのセリフを言わない。んなアホな、と思われる人は、むかしのアメリカのコメディー映画なんかを見てほしい。このセリフはつねにラストでしか言われないから。これは要するに、呪いの言葉と同じなのである。不思議なことに、英語圏では愛とはそういうものであるという暗黙の了解があるのだ。なぜかは知らない。

もしあなたに子どもがいて、将来に不安かもしれない。が、真にあなたが自分の子どもを愛することできているのなら、つまり、ほぼ毎日あなたの子どもと心からのコミュニケーションが取れているわけだから、あなたの子どもは犯罪にもまず巻き込まれないし、良い伴侶に出会って幸せに生きていくことができる。そうでない場合はほぼ確実に不幸になるか早く死ぬ。

同じことが恋人についても言える。もしあなたに恋人がいて、その人を真に愛することができているのなら、あなたも恋人もこれから幸せに生きていける。そうでない場合はほぼ確実に不幸になるか早く死ぬ。要するに、愛とは一人だけのものではなくて、二人以上のものであって、それを持って維持できるかどうかが二人の生き死にに関わってくるわけだ。

愛とは毎日の関係なのだから、相手がそのまま生きていれば維持できるものではない。日々健康に生きていくために愛が必要なのだから、毎日言葉や体のコミュニケーションがなければ愛は維持できない。人間とはそういう生き物だ、ということを悲しいことにほとんどの人が自覚していないので、愛にいかにも無頓着でいる。自分が好きな相手に大切にされている、気にかけられている、そして体を求められている、こういうことを実感すること、それが人間にとって睡眠や食事と同じくらい大事なのだ。そのことを現代人は忘れがちになっていて、さまざまな不幸がそこから生まれている。

愛とは偉大なものであり、ゆえに真に偉大な人間しかそれを持ち維持することができない。卑しく惨めな人間は決して人を真に愛することはできない。それほど、人を愛しそれ維持するというのは大変なことで、努力も意志も自信も確信も必要である。そのどれかが欠けていると愛を維持することはできない。これはキレイ事ではなくて、紛れも無い事実だし、逆の場合は逆になるという恐ろしい話でもある。実際、努力も意志も自信も確信も持った人間二人がたまたまお互い愛しあうなどということがどれだけありえるのだろうか?

愛の結果もまた偉大なものであって、それは人を幸福するだけでなく、愉快で立派で高貴な、そして努力と意志と自信と確信をもった人間にする。これはキレイ事ではなくて、紛れも無い事実だし、逆の場合は逆になるという恐ろしい話でもある。

まあ、こう書くワタシ自身もこのことをキチンと言葉にできたのは今日が初めてなのだけれども。今まで、このことを伝えることができていれば、と思う相手も多い。愛とは、カレーについてくる福神漬みたいにあればラッキーというようなものではなくて、なければ死ぬ、くらいのヘビーなものだった。そういうことを意識して生きてこれたらよかったなあと思う。