ビタミンCのブログ

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世界には真実があるが・・・

ネット上やリアルで人と議論していて思うことがある。それは、人は真実と嘘の存在について理解していない、ということだ。これは驚きである。ワタシが思うに、真実と嘘についてわかっていなければ、何も理解できないはずなのである。真実ってのが何かしらない人は、何ひとつ分からないはずだ。小学校にいた時、自分がなにを勉強しているのか意味がまったくわかっていないような同級生が回りにいたが、そういう感じで、自分が目にすることや聞くことの意味が全くわからない、そういう状態になるはずなのだ、真実と嘘の意味を理解していないと。

さて、では真実とはなにか。真実っていう言い方は固苦しいので、「ホント」と言ってもいい。真と偽という区分は、現実に対するあらゆる言明に対して当てはまるものだ。「今日は晴れです」「おなかがすいた」「あなたが好きです」「この靴は5000円です」。こうしたすべての言明に関して、意識されているかどうかは別として、真か偽かという区分はつねに当てはまる。意識されているかどうかは別というのは、普段私たちはほとんどの言明を真として受け取っているからだ。

さっき例にあげたのは、典型的な言明の例だ。つまり、1.ある外的現実(やその状態)についての言明、2.ある内的現実(物理)に対しての言明、3.ある内的現実(感情)についての言明、4.ある物質の価値についての言明。ほかにもあるかもしれんが、だいたい人はこうした言明を使用して生きている。「使用する」には2つあって、自分で言うのと、人が言うのを聞くの2つだ。

もしこうした普段使っている言明が嘘だったら、私たちの生活は成り立たない。これは例をあげなくても理解できるだろう。どんな原始的な生活においても、真の言明のやりとりというのは生き死にを左右するほど大切なものである。どんな原始的な言語にも真と偽という概念に相当する言葉はあるはずだ。晴れとか雨という言葉は絶対すべての言語にあるはずだが、それと同じくらい、真と偽に相当する言葉もあるはずである。

いいだろうか。真と偽というのは、それくらい基本的な概念であって、これを持っていない人類は存在しない。精神異常者でもその概念は持っている。彼らは往々にして、なにが偽でなにが真か判断する力がないだけである。真と偽の概念が人間にとって根本的に大事なのは、それは私たちにとって、ほんとのことというのが根本的に大事だからだ。これは例をあげなくても理解できるだろう。

さて、では、ワタシが議論する人は真と偽について、それの存在についてさえも理解していないかのようななのはなぜだろうか? それはきっと、学校でそう教えられてこなかったからだ、としか言いようがない。学校では何かを教えるが、それが真だということの価値を教えない。あるいは、真であるものごとを伝えることの価値を教えない。というか教えられない。これは別に日本だけの現象ではなくて、世界的に同じだ。ゆえに人は、真実というものの価値を知らないし、それが私たちの生活を成り立たせていることも知らない。

たとえば、「ネットには真実などない」というような言明をよく耳にする。こういう言明は、人がなにを真であるのか理解する能力を失った証拠のようなものだ。ネットにたとえばウィキや、天気予報や、ニュースや、あるいは人の近況報告なんかがある。これが全部嘘だと言うのだろうか? ただただナンセンスである。

おそらく、人は「真実」というものを、何か表には出てこない、誰もしらないようなものだとしか思っていない。だからこそ、フリーメーソンが世界を支配している、などという言明を真と思ってしまうのである。真実というのは、日常で問題になるようなものも含むのであり、ありふれたものだ。それこそ、テレビやネットで誰もが接しているものであり、学校で誰もが学ぶことができるものであるし、ワタシがアナタが絶え間なく口にしているものである。ところが、そのことを知らないために、どこかに自分の知らない真実があると信じてしまう。

人間の意識というのは、これだけの科学の発展の元にあってさえも、二千年前となにも変わっていない。そうとしか思えない。

真実が問題になるのは現実についてだけであって、空想のものについては当然問題にならない。誰もマンガの『ワンピース』を真実についての話だとは思わない。空想の領域のもので問題になるのは、おもしろいとおもしろくない、という区分だ。あるいは、まれにだが、オリジナルか盗作かということも問題はなる。

さて、科学や哲学というのは、現実の世界を対象にしている。つまりこれらは、真偽が問題になる事柄だ。偽の実験結果が発表されたら社会問題になる。これは、科学の発展というのが社会にとってとてつもなく大事なことだからだ。これも、すぐに理解できることだろう。

しかし、宗教というのは、この世をいったんファンタジーの領域に移行させた上で、真らしいことを言う。宗教が対象にしているのは人の中にある空想の世界についてであり、現実の世界についてではない。純粋な仏教は違うが。人が昔からイメージする「真実」というのは、この宗教的な真実である。世界をいったんファンタジー化させたうえで、その真実を人は求めるか、そのふりをしている、そうとしか思えない。

一般に「世界の真実」と呼ばれるようなものは、生物や化学や物理や歴史や経済や社会についての知識をいれていけば自然と見えてくるものである。この世にあるほとんどの言明は、世界の真実の一部であり、世界の全体的な真実を解明することに寄与している。「肉が食べたい」「やっぱいいや」のような言明でさえそうである。ところがほとんどの人は、真実についての間違った概念を持っているので、それを理解することができないようである。これは恐るべき真実だが、そうとしか思えないのだ。