ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

悪は実在する

前回の投稿、凡庸さとは悪であるは、悪人というものはこの世にじつに身近に存在するものであって、それは凡庸な人間という形でそこら中にいる、ということを書いた。これは、悪の所在について書いたものであって、悪の存在を問題にしている。ここんとこ、今回ははっきりとしておきたい。

ブログとかツイッターとかの世界、いや、私達の日常の世界では、何かの存在について語るということはほとんどない。よく考えてみてほしい。人は「あそこのケーキはうまかった」とか、「ハリルホジッチは無能だ」とか、「昨日は暑かった」とか話している。これは、ある事実について自分がどう思ったかということについての言説ばかりだ。つまり、人は普段、自分たちの持つ観念や感情やその属性について話をしているのであって、何かの存在や現象そのものについて話をしているわけではない。これはまあ、あたり前のことだ。すでに起こった事実についてそのことをわざわざ確認することはない。というのも、それらは単に客観的なだけで、それそのものはただのデータのようなものでしかないからだ。「昨日の試合で川又はトラップを23回し、そのうち8回がミスだった」というようなことを一対一の会話で話す人間を君は見たことがないだろう? そういうことだ。

さて、前回の投稿だが、そこでワタシが書いたことを普段人が話すような「事実についての自分の観念」だと解釈してもらっては困る。ワタシは自分の観念について説明したのではなく、事実そのものについて話した。これは些細なことのように思えて、決定的なことなのだ。なぜか。というのも、このエントリーを書く5分前、ワタシは『ナニワ金融道』で有名な青木さんのマンガを読んでいた。Kindle限定の無料セールだったから読んでいたのだが、そのなかに作品についての彼のエッセイがある。そのなかで、観念論というものがいかに現代人を汚染しているかについて独特な仕方で解説している文章があって、はっとさせられた。そこんとこ、ちょうどうまくまとめてくれている文章がネットにあったので、ちょっと長いけれど引用したい。

テーマは唯物論と観念論。このマンガは九二年の十月から十一月にかけて『ヤングサンデー』(小学館)という若者何けのコミック誌に連載されたもので、そのために彼は二十歳代から三十歳代のアシスタントを六人ほど雇ったとのこと、いままで若者と一切会話をしたことのない生活をしていたので。そこで彼が一番驚いたことは、今の学校教育が、「木を見て森を知らず」の若者を、いかにどんどん生産して世に送り出しているかということだ、と「あとがき」で述べている。そして「唯物論と観念論の闘争は、知と無知の闘争で」あると彼は言い切る。

若者の会話は、「それは、そう思う人には事実かもしれないけど、そう思わない人には、事実だとは言えない。事実は人によって皆違うのだ」などという言い方が大はやりだ。しかし、事実は一つしかない。若者にとって、意見が異なるのは、事実についてではなく、その事実についての若者の観念だということが、わかっていないという。「在る」と「思う」を混同して、「在る」こととは「在ると思うことだ」というような教育をする教師が多くいるということだ。

 「世の中に何か悪いことが起こると、君達はすぐに、社会が矛盾している、社会が悪いという。しかしそれは、君達がそう思うことであって、そう思わない人(どういう人かがまた重要だ)にとっては、別に悪い社会ではないのだ。社会はいいと思う人にとってはいいし、悪いと思う人には悪い。社会はどういう風にでも解釈できる。……その人の主観によって、すべては、まちまちで当たり前なのだ。責任はそう思う自分にある。そこに存在に支配されない魂の自由がある」と。

 もし唯物論者なら、そういった教師の頬を一発殴ってから、「あなたは僕に殴られたと思っているのだ。あなたは痛いと思っているだけのことだ。殴った僕が、ここにいないと思えば、殴られたかどうかわからないではないか。観念の外に殴った僕自体というものは、実は存在しないのだ。あなたが痛いと思うから痛いだけであって、殴ったと思うから殴っただけのことだ。ひらたくいえば、あなたの気持ちの持ちようだ。病は気からというではないか。殴ったと思うことも、殴らなかったと思うことも、あなたの自由であり、あなたの主観であり、責任はあなた自身にある。僕にはない。そこに僕という存在に支配されないあなたの魂の自由がある」と切り返すべきだ。「この観念論者にとって、いちばんの痛手は実践であり行動」である
http://mcg-j.org/step_blog/mobile_archive_254.htm

まあ、青木さんは共産党を支持するちょっと変な人だったが、言っていることは90パー正しい。正しくない10パーは、「観念論者にとって、いちばんの痛手は実践であり行動」というところだ。彼の言う「観念論者」を論破するためにそいつを殴る必要はない。今回はそこんとこ詳しく話したい。

悪というもの、これは存在する。たとえそれがハンナ・アーレントの言うように表層的なものだとしても、それは確実に存在するものであって、ゆえに現実的な害を人々に与えている。それは人の観念のなかにだけあるものではなくて、ある人間が実際に体現するものであり、ゆえにその人間のなす行為も悪となる。

はい、これだけですでに理解できない人、反論しようとする人がごろごろこの世の中にいる。上の「悪」という部分を「戦争」に変えてみよう。「戦争というもの、これは存在し、ゆえに現実的な害を人々に与えている。それは人の観念のなかにだけあるものではなくて、ある国歌や組織が実際に実行するものである」。これだけでは不十分なので、もう少しつけくわえてみよう。「それゆえ戦争は、ある国家がそれに対して準備をするしないにかかわらわず起こりうるものであり、実際に起きている。戦争を引き起こすのは安保法案ではなく、現実の組織や国歌の行動である」。どうだろうか。このことの意味が分かる人がこの日本にどれだけいるのだろうか。正直不安になる。

安保法案が戦争を引き起こすという人は、要するに、観念が存在に干渉して存在そのものを変化させると言っているに等しい、とワタシは思う。この人たちはきっと普段、存在は観念によってどうとでもなると信じている人たちに違いない。普段から存在と観念の区別がついていないからこそ、逆の発想、観念が存在を変えるとも信じられるのだろう。この人たちがどれほど戦争というものをリアルに捉えることができているのか、はなはだ疑問だ。

まあ、それはいい。ここではあまり関係のない話だ。問題は、悪についてだった。

日本人はこう断言することに慣れていないが、悪人というのも、悪というのも存在する。それをはっきりと言えないとダメだ。悪というのは人や組織に物理的あるいは経済的あるいは心理的な害を与えること。悪人とは、悪をなしておいてそれについて後悔も反省もしない人間だ。いじめは悪だし、いじめをして反省しない人間は悪だ。このことについて議論する意味は無いし、議論の余地はない。そこんとこ曖昧にして、適当にごまかそうとする人間、これも悪と言っていい。つまり、いじめを隠蔽したり、ごまかそうとする教師や校長も悪だ。これはワタシがそう思うとか言うことではなく、客観的に見て絶対的に厳然とそうである。神様が見てもそう言う。

もうお分かりいただけるだろうか。悪が存在すると言うことの大切さを。それが観念ではないと主張することの大切さを。

白は黒には見えない。白は白だ。黒は白には見えない。黒は黒だ。これは、どう思うとか関係ない。日本人は、こういうごくごく基本的なことを主張する訓練をしてない。ゆえに、議論が世界中でもっとも下手である。これはじつに危険なことだ。

悪があるなら善もある。善とは人や組織に良い作用をもたらすものすべてのことだ。マラリアに苦しむ貧しいアフリカの人たちにお金をあげるのは善だ。震災の時、孫正義が寄付したことについて偽善と非難する声が巻き起こった。だが、偽善も善である。偽善だろうが何だろうが、善は善だ。白い紙にちょっとゴミがついていてもそれは白い紙であって黒い紙ではない。お金があれば命が助かる人がいて、その人にお金をあげる行為は、その受け取る人にとって絶対的な善である。その金を受け取る人がじつは極悪人であるというケースをのぞいて、客観的にその行為は善なのであって、それを「偽善」と言うのは、パソコンの前でオナニーするしか脳のない底辺の連中がその行為について間違った観念を与えることでしかない。

日本への原爆投下は悪である。必要悪であっても悪である。実際は必要悪でさえなかったのだが、それを必要悪と言って悪であることをごまかそうとする人間もすべて悪である。

悪という言葉が抽象的に思えるのなら、悪いこと、あるいは良くないこと、と言ってもいい。悪いことってのは現実にいくらでもある。台風や干ばつなど自然現象でも、農家や人に被害だけを与えるものは「悪いもの」だと誰もが言うし、被害そのものも「良くないこと」だ。ぎっくり腰も悪いことだ。過労死も悪いことだ。逆に、生命活動を増進させるようなものは「良いもの」だ。健康によい食べ物は「良いもの」だし、じゃがいもにやる水も「良いもの」だ。寝ることや、排泄すること、セックスすることは基本良いことである。

このように、人間がかかわる活動だけでなく、自然現象にさえも善と悪はあるのであって、人はなるだけ悪をさけて善を追求しようとしている。悪人も、普通は自分にとってよいことをなしているものである。いや、これは人だけでなく、すべての生命にとって言える。すべての生き物は自分にとっていいことをしようとして生きている。それゆえ、その生き物の命を奪ったり活動を制限することはヨクナイこと、悪なのだ。この基本的な良い悪いの意味を、善と悪という言葉の意味に拡張していい。というか、そうするべきだ。

何が言いたいかというと、悪とは観念の上だけで存在する抽象なんかではなくて、事象や行為の属性であるということだ。どんな事象や行為も、それが生命に与える害や益に応じて、悪であったり善であったりする。そのこと自体は事実であり、そこには一片の抽象もない。ただ、立場がかわると善と悪がかわる、ということはある。一時的に善と見えるものが長期的には悪であることもある。麻薬とかね。ま、そのことはみんなよく知っていることだと思う。

でも、やはり客観的な悪、あるいは社会的悪というのはある。「おまえ一人にとっては善だがほかのすべての人にとっては悪だ」というような場合、それは客観的に見て悪なのである。このことをきちんと認識して対処し、またそう主張できること、このことは、人の人生にとって大切であることはもちろん、人類の平和や未来にとっても決定的に重要なことである。そういう悪を根絶すれば、世界は自然と良い方へと向かう。同じように、あなたの周囲の悪人を根絶すれば、あなたの人生は幸福になる。あなたの身体に起こる悪を根絶すれば、あなたの体は健康になる。

人生においては、善をなすことも大事だが、悪にどう対処するか、ということも同じように決定的に大事なのであり、そのことを覚悟しないで生きると、文字通り生死にかかわることになる。