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「なぜ」と「どのように」1 近代科学の精神について

近代科学を誕生させた要因としてはいろいろ考えられる。しかし、近代科学を近代科学として成立させ、いまでも成立させているもの、それはひとつしかない。言うまでもなく、それは近代科学の思考方法というか、方法論だ。では、近代科学の方法論とはどのようなもので、以前の科学とどう違うのだろうか。ここではかいつまんだ説明しかできないが、簡潔な説明が本質をうまくつかむものである。とくにこの問題については。

小保方さんがSTAP細胞があると言った時、彼女自身も、あるいはほかの科学者も、それが実際にあるかどうかだけを問題にしていた。これは、現代の科学者の科学に対する基本的な態度を見事に示すケースだったと思う。「問題はSTAP細胞が実際にあるかどうかなんだから、それを問題にするのは当たり前じゃない?」と思われるかもしれない。が、そうではない。これが中世や古代の科学者(中世や古代に「科学者」という呼称はまだなかったが)なら、「STAP細胞は理論的に可能か」を問題にしたはずだ。ところが現代科学が支配する21世紀の日本では、STAP細胞は理論的に可能か」を問題にする人は当の小保方さんを含め皆無だった。おそらく、もし小保方さんが「実験ではまだ100パー確認されていませんが、STAP細胞は理論的に確実に存在します」と言えばどう受け取られただろうか。きっと、彼女は科学者ではないとほかの科学者全員から思われたことだろう。それくらい、現代では、未確認の現象や事象をこれまで発見されたことから推測して「理論的に存在する」と主張することはタブーとされている(ちな理論物理学は除く)。それは、近代科学の精神に反することだからだ。

とはいえ、古代の科学においても、まだ発見されていない現象の存在を主張することはなかった。しかし、古代や中世においては、すでに見られる現象の理論的な説明や分析に重点がおかれていて、実験はあまり行われていなかった。観察はあったが、実験はあまりなかった。というのも、現実を理論的に解明することが科学(科学という呼称はまだなかったが)の目的であったからだ。理論的に説明されたことがらから出発して、ある事象の存在を理論的に想定するくらいのことは普通にしていたから、(変な言い方だが)STAP細胞くらいなら理論的にその存在を想定しても不自然ではなかっただろう。

何がイイたいかというと、近代と近代以前の科学は、それくらい決定的に方法論が違うということだ。これをわかりやすく言うと、近代以前の問の形式は「なぜ」であり、近代以降は「どのように」である、となる。例を知りたければ、アリストテレスの運動論と、ニュートンの光学論を比べてみればいい。アリストレスは確かに実際に起きる事象をとりあげているが、運動を非常に独特な仕方で理由づけようとしている。これに対し、ニュートンは光や視覚という現象を理由づけずに、実験で純化された事象を正確に紹介しようとしている。有名な、光では白色がいろんな色のまざったものという発見についても、アリストレス的な形而上学的理由づけを与えていない。これは、近代のほうが優れているとかそういう問題ではなくて、科学の性質がまったく違っているということだ。

もっとも、この変化がスムーズにいったわけではない。し、いまでも事象の理由を求める向きはある。たとえば、19世紀まで、光が伝播するために必要だと思われたエーテルという媒質の存在が想定されていた。これは、光の働きを理論的に説明するために考えられたものである。いまでも、クオリア問題とか英米系の認識論なんかに古代・中世の科学の精神が見られる。それは要するに理由づけである。人間は理由を求めるいきものなので、いくら近代前の科学的精神が古臭いからといって、現象の理由づけをやめるということはないだろう。たとえば、宇宙がなぜ存在するかとか、なぜ地球に人間が存在するかとかの問は、「なぜ」の問であるから、近代科学が答えられる問ではない。近代科学が答えられる問は「どのように」の問だけだからだ(ちな理論物理学は除く)。