ビタミンCのブログ

ブロマガから移ってきました

「科学的に証明されていない」の嘘

だいぶん前になるが、小保方さんとSTAP細胞騒動に関して、思ったことがある。それは、これだけいろんなことをいろんな人が言っているのに、誰も「STAP細胞の存在が理論的には正しいのかどうか」、ということは問わないんだなってこと。これは現代の科学の根幹に関わる問題だ。現代の科学では、理論物理学を除いては、「理論的に証明できるか」どうかなんてことはまったく問題にならない。それよりも、現実にできるか、現実にはどうなっているか、だけが問題なのだ。

これはじつはすごいことだ。というのも、哲学的に言えば、合理論が現代では完全に否定されて、経験論が圧勝しているというか、そもそもそんな対立があったことさえ忘れられているほどに、経験論が正しいということになっている。いや、現代の科学の立場が経験論であるということさえ意識されないほどに、経験論の立場が当たり前になっている。もちろん、筆者もこれ(=経験論)に同意する。

理論的にどうこうのというのが問題にならないということは、科学って何なのか、ということに直結する問題だ。経験論とは、事実にしか正しいことはない、という立場だ。理論的に正しいことなんてものは存在しない。すべての理論は仮説であり、あるのは事実である。理論はもちろん必要だが、それ以前に事実があり、そっちが理論の正しさを支えているのだ。理論が事実の正しさを証明するなんてことは天地がひっくり返ってもない。

以上のことを踏まえると、「科学的に正しい」だの「科学的証明された」ということは、確認された事実がある、ということ以上の意味がないことが分かる。たとえば、STAP細胞は科学的に正しいのかどうか、なんてことは問題にならなかった。そもそも「科学的な正しさ」なんてものは存在しなくて、あるのは事実だけだからだ。できるかどうか、だけなのだ。もし小保方さんが「実験で立証でできないが、STAP細胞は科学的に正しい」なんて言い出したら、みんな彼女の正気を疑うだろう。白か黒かの事実の前には、「科学的な正しさ」なんてのは牛の糞以下の価値しかないのだ。この立場は正当だし、対応した科学者の態度も小保方さんも含めてこの立場だった。

しかし、不誠実な科学者は、「科学的な正しさ」だの「科学的に証明された」ということを事実とはまるで別のもののように話す。放射能についてだ。さすがに彼らも、「放射能は健康に悪影響がないことは科学的に証明されている」とまでは言わない。代わりに、放射能は健康に悪影響があることは科学的に証明されていない」と言う。これ、論理に弱い人ならどちらも同じに思えるかもしれない。とはいえ、前者の文言にも意味は無い。科学的に証明されているかどうかではなく、事実が問題なのだからだ。事実に関して、「科学的証明」なんてものはそもそも存在しないのだ。

が、後者の文言にはもっと意味が無い。「科学的に証明されていない」。これほど意味のない言葉も無い。はっきり言って、こんな言葉を口にする人間はそれだけでアホだと思っていい。まあ言いたいことはわかる。この文言の意味は、「いまの知見では両者の関連性は客観的に確認されていない」ということだ。これはしかし、「両者の関連には客観性がない」ということではなく、「まだ確認できていない」あるいは「確認したくないのでないことにしている」だけなのだ。ここを間違えてはいけない。ここを間違えると、大変なことになる。事実、なった。

たとえば、昔のことだが、「野菜は健康にいいかどうかは確認されていない」ということを科学者が言ったことがあった。このせいで、アメリカ人は野菜を食べなくなり、かなりの健康被害が出たらしい。日本でも、コメだけ食べていればいいという医者の言葉を信じて、脚気になった軍隊があった。科学において「確認されていない」というのは何の意味もない文言だということをしっかりと認識しないといけない。では、私達は何を信じるべきなのか。

私達は事実のみを信じるべきである。これは何も新しい立場ではなくて、真面目な科学者においても常識となっていることだ。でなければ、どうして誰もSTAP細胞の理論的正しさを問題にしないのか。それは、事実しかそれがあることを証明するということはないからだ。事実のみが正しいのであって、それに先行したり超越するような「理論的な正しさ」あるいは「科学的な正しさ」なんてものはない。というのも、事実を超越したなにか科学的なものが存在するわけではないからだ。

科学というのは、もともとひたすら事実のみを探求するものだ。事実を超えた理由、たとえば世界の存在の理由とか、光の速さが絶対速度である理由とかを科学は探求しない。同じように、特別な「科学的な事実」というものもない。すべての事実は科学的である。科学はすべての事実を対象にするが、なにか普通の事実とは別の特別な「科学的な事実」だけを対象にするのではない。


ところが、ニセ科学者は、まるで「科学的な事実」と「非科学的な事実」があるのかのようにふるまう。さすがに彼らも「その事実はまだ科学的に証明されていない」なんてことは言わないが、それに近いこと、つまり、「放射能健康被害の関連はまだ科学的に証明されていない」なんてことを言う。では、彼らは事実に注目しているだろうか? そんなことはない。こういうことを言う人間は決して事実を見ない。いまある事実を否定するために彼らは「科学」という言葉を持ち出すのだ。彼らが人間として失格なのは確かだが、科学者としても失格なのである。

言いすぎだろうか? いやそんなことはない。現にある事実を、「科学的な関連は証明されていない」という文言で否定するのは意図的なごまかしだ。「科学的な関連」というのはない。あるのは明らかに関連がありそうな二つの事象があるとき、それには関連があるかもしれないと思って研究するのが科学的な姿勢である。それなのに、「そんなはずはない」と言って否定するのは科学ではない。ある2つのことに関連があるかを決定するには、まず研究してから判断しなければならないのであって、事実を見た瞬間に「そんなはずない」という者はそれだけで科学者失格なのだ。

世界に客観的で絶対的な関係というのはない。因果性というのは客観的に絶対にあるのではなくて、人間が見出すものなのだ。これについてヒュームは正しかった。これは、因果性というのは不確かだということではない。絶対的ではないが、蓋然的であるというのが科学的に確認できる因果的関係である。たとえば、紙に火のついたマッチを近づけて、その紙が燃えるとする。そのとき、紙が燃えたのは火のついたマッチのせいだと考えるのは、人間の営みである、人間の思考の結果である。実際には、マッチが紙についた瞬間に紙は自然発火したかもしれない。その可能性は排除できないが、100回やって同じように紙に火がついたら、紙の火の原因はマッチである蓋然性が極めて高いと考えてよい。今の科学というのは、こうした統計的な蓋然性によって確認されることをもって、事実についての科学的で正しい見方としている。

それゆえ、2つの事実のあいだに膨大な数値的な連環がある場合、そのあいだに因果性などの関係があるかもしれないと考えるのが科学的な姿勢なのだ。まずは事実があり、それを科学は否定できない。その次に、2つの間の事実に関係がありそうなとき、科学はその関係を直ちに否定できない。ましてや、その関連性について有意義な数値が大いとき、科学は決してそのあいだの関係を否定できないのである。

要するに、科学というものを過信するな、ということだ。科学は自然自体を一歩も超えない。事実以上のものはこの世にないのだ。